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2011年6月30日木曜日

守護・地頭の設置

~日本国第一の大天狗~

源頼朝との仲が悪化していた弟源義経は、1185年(文治元年)10月18日、後白河法皇から頼朝追討の宣旨を得ます。

畿内近国に支持を持たなかった義経は、京都を離れ九州へ向かいますが、摂津国大物浦で難破してしまいます(源行家も行動を共にしていました。)。

一方の頼朝は、一時、自らが出陣し駿河国黄瀬川宿まで軍を進めますが、義経が京を退いたという情報が入ると鎌倉に戻っています。

しかし、京都には東国軍が次々に西上し、この事態に驚いた法皇は、逆に義経追討の院宣を頼朝に下しています。

頼朝は、後白河法皇の弁解に対する返書に、
「日本国第一の大天狗はさらに他に居申さぬ」と記したといいます。


~頼朝の守護・地頭の設置要求~

さて、守護と地頭は、大物浦で難破した後行方のわからない源義経・源行家の捜索・逮捕の名目で設置されたというのが一般的な説となっているのかと思います。

『吾妻鏡』は、義経の京都退去への対策を考える頼朝に、大江広元が「守護・地頭」を設置する案を献策し、頼朝がこれを採用したのだと記しています。


大江広元が言うには・・・

世も末で、無法者が勢い盛んになる時です。
反逆する者がなくなることはないでしょう。

東海道は頼朝公が支配して治まると思われますが、
地方での反乱が必ず起こります。

それを鎮めるためにその都度兵を派遣していたのでは、

人々の負担となり、
国費を無駄に遣うことになるので、

この機会に諸国に権力を及ぼすようにし、
国衙、荘園ごとに守護・地頭を設置すれば、

反乱を恐れることはないでしょう。
早く朝廷に守護・地頭の設置を申し入れすべきです。


頼朝は、代官として北条時政を京都に派遣し、「国ごとに「守護」を、全ての荘園・国衙領を管理するために「地頭」を任命し、「兵粮米」として反当たり五升を徴収する」という要求を朝廷に突き付けます。

これを受け入れた朝廷は、1185年(文治元年)11月29日、「義経・行家の捜索・逮捕」、「守護・地頭の設置」、「兵粮米の徴収」を認めました。


~『玉葉』の記述は・・・~

九条兼実の日記『玉葉』には、守護・地頭の設置について、「北条時政以下の御家人が五畿、山陰、山陽、南海、西海の西日本諸国を分与され、荘園・国衙領を問わず兵粮米を徴収し、田地を支配する」と記されています。

『吾妻鏡』の記述と多少違う感じですが、『吾妻鏡』の記事は、この『玉葉』の記事をもとに書かれたという説もあります。


いずれにしても、一連の事件によって、頼朝は、自らの命で動かすことのできる御家人を全国に配置し、全国支配の組織をつくることができたということなのでしょう。

(参考:源頼朝の上洛・・・権大納言・右近衛大将







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