新加納の戦いは、美濃の稲葉山城を攻略したい織田信長と稲葉山城を本拠としていた斎藤龍興との合戦。
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1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が戦死した後、幾度も美濃に侵攻するも攻略できなかった信長。
何とかしたい信長は、1563年(永禄6年)4月、木曽川を渡って美濃国へ侵入し、新加納(現在の岐阜県各務原市付近)でで龍興軍と激突しました。
兵力では勝っていたといわれている信長軍がですが、龍興の家臣・竹中半兵衛の伏兵策に翻弄されて大敗北を喫してしまいます。
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十面埋伏の計
竹中半兵衛のとった作戦は・・・
稲葉山へと進軍する信長軍に対し、美濃勢は抵抗しきれないとみせかけるため後退を始めます。
信長軍は一挙に稲葉山城に迫ろうとしますが、敵を十分に引き入れたと判断した竹中半兵衛は反撃命令を発します。
待ち構えていた美濃勢が信長軍へ突入すると、信長軍は総崩れとなって全滅寸前にまで追い詰められ、信長は尾張に逃げ帰ったのだとか。
この作戦は、四方八方に伏兵を配置して敵を囲み、逃げ場を失わせる「十面埋伏の計」を応用したものだったと伝えられています。
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木下藤吉郎秀吉は?
この合戦で殿(しんがり)を命じられていた木下藤吉郎秀吉は、総崩れとなった信長軍の後方に陣を構えていましたが・・・
「信長本陣が危うい!」との知らせ届いても、一向に動こうとしません。
やがて、夕暮れが迫ろうとした頃、秀吉が筵端(むしろばた)を高く掲げさせると、稲葉山一帯に松明の火が転々と浮かび上がります。
秀吉が狩り出していた尾張の百姓の仕業でした。
慌てた美濃勢が包囲をといて城へ引きあげてしまったため、竹中半兵衛は信長を打ち漏らしてしまったのだとか。
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稲葉山城を占拠した半兵衛
新加納の戦いの翌年、竹中半兵衛は、たった16人の手勢で難攻不落といわれた稲葉山城を占拠。
斎藤龍興の乱政を諫めるためと伝えられています。
織田信長は「城を譲れば美濃の半分を与える」と持ちかけたようですが、半兵衛はこれを断り、半年後には龍興に城を返却して隠遁。
この事件を機に美濃への圧力を強めた信長は、1567年(永禄10年)、美濃へ侵攻。
斎藤龍興が稲葉山城を追われと、半兵衛は斎藤家を去っています。
その後、半兵衛は、北近江の浅井長政、織田信長、次いで羽柴(豊臣)秀吉に仕えることに。
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岐阜城は、稲葉山城と呼ばれた山城。
源頼朝・頼家に仕えた二階堂行政が築いた砦が始まりとする伝承もありますが、本格的な築城は戦国時代。
1539年(天文8年)、斎藤利政(道三)・義龍・龍興の三代の居城でしたが・・・
1567年(永禄10年)、織田信長が奪取(稲葉山城の戦い)。
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