光触寺の本尊は阿弥陀三尊像。
中尊の阿弥陀如来像は、運慶作で『頬焼阿弥陀縁起』(国重文)に登場するの阿弥陀仏なのだと伝えられています。
『新編鎌倉志』によると、運慶は1215年(建保3年)に源実朝の招きで鎌倉に下向。
その時に彫ったのが光触寺の阿弥陀如来像で、脇侍の観音は快慶、勢至は湛慶の作なのだとか。
運慶は1180年(治承4年)の南都焼討で焼失した東大寺や興福寺の復興造仏事業に携わった奈良仏師。
東大寺南大門の金剛力士像や興福寺北円堂の諸像を造立しました。
頬焼阿弥陀が彫られたという1215年(建保3年)頃からは、源実朝・北条政子・北条義時などの依頼による造仏に携わりました。
『吾妻鏡』によると・・・
1216年(建保4年)、源実朝の持仏堂の本尊・釈迦如来
1218年(建保6年)、北条義時の大倉薬師堂(覚園寺)の薬師如来
1219年(承久元年)、北条政子の依頼により勝長寿院の五大尊像を手掛けています。
金沢の称名寺の大威徳明王は、像内文書から1216年(建保4年)に、実朝の養育係だった大弐局の発願で造立されたことが判明しています。
ただ、これらの造仏のために鎌倉に下向したかどうかは不明。
快慶も東大寺や興福寺の復興造仏事業に携わった仏師。
湛慶は運慶の子で三十三間堂の本尊千手観音坐像を造立しています。
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2025年9月9日から