かつて、東光寺境内に聳える石戸蒲ザクラの根元には、二十二基の板石塔婆(板碑・青石塔婆)が立てられていました。
現在は東光寺の収蔵庫に保管されています。
板石塔婆は、死者の供養や生前に死後のやすらぎを願って造られた供養塔。
貞永の板石塔婆
貞永二年(1233年)の銘がある板石塔婆は全国で四番目に古いもので県指定の文化財。
この他、寛元四年(1246年)銘、建長三年(1251年)銘のものもあります。
【板石塔婆の公開】
令和7年3月29日(土曜日)・30 日(日曜日)、東光寺で板石塔婆が公開されます。
午前10時から午後3時まで
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板石塔婆は、鎌倉時代から室町時代前期にかけて造立されたものが多く、鎌倉武士の本貫地とその所領に立てられていることから、鎌倉武士の信仰に強く関連すると考えられています。
貞永の板石塔婆が立てられたのは三代執権北条泰時の時代。
寛喜の大飢饉による影響が続いていた時代です。
飢饉の状態は、1239年頃まで続いたものと考えられ、「天下の人種三分を一失す」といわれるほどでした。
寛元と建長の板石塔婆が立てられたのは五代執権北条時頼の時代。
寛元四年は、四代執権北条経時が亡くなり、四代将軍だった九条頼経が鎌倉から追放されるという政情不安定の時代(宮騒動)。
翌年には宝治合戦が起こり三浦氏や千葉氏が滅ぼされています。
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