『吾妻鏡』によると、源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したとされる人物はだれか。
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、一時、箱根権現に身を寄せますが、8月28日、真鶴から船出して安房国へ渡ります。
参陣を命じられた千葉常胤は、9月9日、鎌倉を本拠とするよう進言したのだと伝えられています。
(鋸南町:竜島海岸)
真鶴から船出した頼朝は、8月29日、安房国の平北郡猟島に上陸。
平北郡猟島は、現在の鋸南町竜島辺りと考えられています。
千葉常胤は下総国の武将。
亥鼻城を本拠としていました。
『北条九代記』によると・・・
作戦会議中に常胤が頼朝に申し上げたことは、
「今の御軍陣は敵の攻撃を防ぐのに適当な土地ではありません。
相模国の鎌倉こそ先祖が残されたすぐれた遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適しています。
陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利です。
兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのままです」
これに加えて
「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」
「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」
「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」
を申し上げ、
最後に
「将来の幸運をこの世にもたらし、先祖の名を雲の上にまで響かそうとするには、この鎌倉がまことにめでたくすばらしい土地柄です」
と申し上げたのだとか。
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