小笠原氏は、
新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の一流。
加賀美遠光の次男で
源頼朝に仕えた
長清が小笠原を称したことに始まります。
代々、鎌倉幕府に仕えますが、七代目の貞宗は、1333年(元弘3年)5月7日、幕府に反旗を翻した
足利尊氏が京都の
六波羅探題を陥落させると尊氏に従います。
その後、尊氏の嫡男で人質として鎌倉に留め置かれていた義詮が鎌倉を脱出すると、これに従い、上野国の
生品神社で倒幕の挙兵をした
新田義貞と合流。
義貞の
鎌倉攻めに加わりました(5月22日
鎌倉幕府滅亡)。
1335年(建武2年)に起こった北条時行の反乱(
中先代の乱)から南北朝内乱の初期にかけても尊氏方の武将として各地を転戦し武功を挙げています。
鶴岡八幡宮の
例大祭で奉納される
小笠原流流鏑馬は、
小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。
七代小笠原貞宗は弓術・馬術に武家の礼法を加えたとされ、小笠原流礼法中興の祖といわれています。