1144年(天養元)〔 〕は〔 〕が寄進したという〔 〕の荘園である大庭御厨へ侵入した。当時〔 〕は現在の〔 〕付近にあったとされる「鎌倉之楯」を拠点に東国で活動していた。
源頼朝が鎌倉の地に新邸を造営しようとしたとき,当初の候補地だったが,土地が狭く造営を断念したとされる父源義朝の館「鎌倉之楯」は,今のどこ付近と考えられるか。
現在の壽福寺付近にあったとされる「鎌倉之楯」を拠点に東国で活動していた 〔 〕は,現在の藤沢・茅ヶ崎市一帯にあたる〔 〕御厨に再三侵入したという。
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1104年(長治元年)頃に成立したという大庭御厨は、現在の藤沢市から茅ヶ崎市にまたがる相模国最大の寄進地系荘園。
鎌倉権五郎景政が先祖から受け継いだという大庭荘を開発したもので、『吾妻鏡』によると、1117年(永久5年)10月23日に伊勢神宮に寄進されました。
1144年(天養元年)には、源義朝が大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、大規模な収奪を行ったことでも知られています。
当時の大庭御厨の下司(管理者)は大庭景宗だったのだと伝えられています。
※景宗は、大庭景義・景親・景久兄弟の父。
※大庭氏については、景政の子景継が大庭御厨を領したことから「大庭氏」を名乗ったという説もありますが、詳細は不明です。
(藤沢市)
皇大神宮は、大庭御厨の総鎮守として崇敬を集めた社。
義朝の鎌倉之楯は亀谷(壽福寺付近)にあったといわれています。
1180年(治承4年)10月6日、先鋒を畠山重忠、殿(しんがり)を千葉常胤がつとめた源頼朝の軍が相模国に入ります。
翌日、鎌倉に入った頼朝は、鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝し、父義朝の旧跡を訪れています。
鎌倉七口の一つ亀ヶ谷坂は、鎌倉入りの際に使った道と伝えられます。