一条院は藤原詮子に献上された邸宅。
999年(長保元年)、内裏を焼かれてしまった一条天皇が里内裏としました。
里内裏は内裏の焼失にともなう仮の皇居。
1000年(長保2年)に内裏が再建されると、10月11日に還御しますが・・・
1001年(長保3年)11月18日、再び内裏が焼失。
11月22日、再び一条院に遷御しました。
1003年(長保5年)、内裏が再建されると、10月8日に還御しますが・・・
1005年(寛弘2年)11月15日、またも内裏が焼失。
この時は、いったん東三条殿(東三条院)に遷った後、1006年(寛弘3年)3月4日、一条院に遷御。
同年には内裏が再建されますが、還御しなかったのだといいます(一時還御しているという説も。)。
1009年(寛弘6年)10月5日、今度は一条院が焼失。
すぐに一条院の再建が始まり、1010年(寛弘7年)11月28日、枇杷殿から再建された一条院に遷御しています。
一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えた紫式部は一条院に出仕していたようです。
1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇は一条院の中殿で崩御。
一条院では、南殿を紫宸殿、中殿を清涼殿と呼んでいたそうです。
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