円融天皇の父・村上天皇の第五皇子。
兄の冷泉天皇が即位前から病気がちであったため、村上天皇の遺命により皇太弟となったのだといいます。
つまり、円融天皇は冷泉天皇の皇子が成長するまでの一代主(中継ぎ)の天皇として即位したらしい。
そのため、藤原兼家は娘を円融天皇に入内させる考えはなかったのだといいますが・・・
979年(天元2年)、右大臣となった兼家は、翌年、次女の詮子を入内させます。
そして、詮子は第一皇子の懐仁親王(のちの一条天皇)を生みました。
しかし、982年(天元5年)、円融天皇は藤原頼忠の次女・遵子を中宮としたため、腹を立てた兼家は詮子と懐仁親王を東三条殿に連れ帰り、出仕をやめてしまいます。
円融天皇と兼家の意地の張り合いはなかなか収まりませんでしたが・・・
984年(永観2年)、譲歩した円融天皇は、師貞親王(花山天皇)に譲位し、懐仁親王を東宮(皇太子)とすることになります。
東三条殿は、藤原兼家の邸宅。
ここで詮子は一条天皇を出産。
兼家の死後は、嫡男・道隆に継承され、道隆の長女・定子は東三条殿から一条天皇に入内。
道隆の死後は道長が相伝。
紫式部は、道長の長女で一条天皇の中宮となった彰子に仕えますが、初出仕の時期については1005年(寛弘2年)とする説と、翌寛弘3年とする説などがあります。
1005年(寛弘2年)11月、平安宮の内裏が焼失してしまっているため、一条天皇は東三条殿に遷った後、翌年、一条院に遷御しているので、初出仕の場所は寛弘2年ならば東三条殿、寛弘3年ならば一条院ということになるようです。
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