花山天皇が出家した元慶寺の隣接地には、藤原詮子が建立した慈徳寺があったといわれています。
藤原実資の『小右記』によると、慈徳寺は999年(長保元年)に落慶供養が営まれ、藤原道長の『御堂関白記』には、道長が工事を監督したことや、詮子の御幸の様子が記されています。
元慶寺は、花山天皇が出家した寺。
花山天皇は、寵愛していた女御の藤原忯子が死去すると、悲しみのあまりに出家を考えはじめたのだといわれています。
花山天皇に信任されていた藤原義懐と権勢を争っていた藤原兼家は、この機に、次女の詮子が生んだ懐仁親王を皇位につけるため画策。
蔵人として花山天皇に仕えていた三男・道兼に出家を勧めさせます。
そして、986年( 寛和2年)6月23日、道兼に連れられて内裏を抜け出した花山天皇は元慶寺で出家したのだといいます(寛和の変)。
華山寺は、慈徳寺の跡地に建てられた寺なのだといいます。
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