大久保忠世は、源頼朝に仕えた下野国宇都宮氏の三代当主・朝綱の子孫といわれます。
宇都宮氏は、近江国の石山寺の座主だったという藤原宗円を祖とし、代々、宇都宮二荒山神社の社務を統括する最高責任者を務めていました。
南北朝期、朝綱の子孫・宇都宮泰藤は新田義貞に仕え、越前国で義貞が戦死すると三河国に移り住んだのだといいます。
そして、泰藤の孫の泰道は宇都宮から宇津に姓を改め、宇津泰道の孫の昌忠が松平氏三代当主の信光に仕えたのだとか。
そして、昌忠の孫の忠茂または曾孫の忠員が大久保を名乗ったらしい。
忠員の子が大久保忠世。
宇都宮朝綱からの繋がりを立証する資料は存在しないらしいが・・・
宇都宮泰藤が仕えていたという新田義貞の先祖新田義重は、徳川家康が祖と称していた武将。
松平氏の祖は、義重の四男・義季の子孫といわれる松平親氏。
これらが本当だとすれば、大久保忠世は家康に仕えるために生まれてきたのかも・・・
三河国加茂郡松平郷は、徳川家康が祖と仰ぐ新田義重の子孫・親氏が辿り着いた地。
1575年(天正3年)の長篠の戦い後、忠世は二俣城を与えられた。
この城で、家康の嫡男信康が切腹している。
1590年(天正18年)の小田原征伐後、忠世は小田原城を与えられている。
城下に菩提氏の大久寺、信康供養のための萬松院を創建。
宇都宮泰藤が新田義貞の首を葬った地とされる首塚も城下にある。
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