『吾妻鏡』によると・・・
1190年(建久元年)4月20日、鎌倉に佐々木定綱の伝令が到着。
報告されたのは、源頼朝の姉妹・坊門姫が4月13日に難産のため死去したという知らせ。
46歳だったのだといいます(本当だとすると頼朝の姉になる。)。
5月19日の山田重弘の報告によると・・・
4月13日、存命のため出家してお産に望みましたが亡くなり、翌日、仁和寺辺りに葬られたのだそうです。
その日は賀茂祭の日でした。
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頼朝はとても悲しみ、4月22日には京都へお悔やみの使者を遣わし、5月3日には勝長寿院で追善供養を行っています。
5月5日の端午の節句は、御所の屋根には菖蒲を飾りませんでした。
5月10日には、佐々木定綱に四十九日の法要を営むよう命じています。
定綱の報告によると指導僧は園城寺の公胤。
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鎌倉との繋がりを求めて。