1579年(天正7年)、徳川家康は、武田に内通していたとして正妻の築山殿を殺害し、嫡男の松平信康に切腹を命じます。
信康が遠江国の二俣城で自害する際、服部半蔵(正成)は検使に遣わされます。
信康の介錯を命じられたのは渋川四郎右衛門。
しかし、代々恩義のある主君の首に刀はあてられないとして出奔。
そのため、正成が介錯を命じられたのですが・・・
信康のいたわしい姿を見た正成は、首を打つことができず、刀を投げ捨て倒れ伏してしまったのだといいます。
結局、介錯したのは検使役だった天方通綱だったのだとか。
(東京都新宿区)
1594年(文禄3年)、正成は江戸麹町の清水谷に安養院を創建。
信康の供養塔を建てて菩提を弔いながら余生を過ごし、1596年(慶長元年)に死去。
安養院に葬られました。
西念寺は、安養院を前身とする寺院。
松平信康の供養塔
服部半蔵の墓
☆ ☆ ☆ ☆ ☆