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2022年12月1日木曜日

後鳥羽上皇の地頭職改補の要求を拒絶した北条義時




『吾妻鏡』によると・・・

1219年(建保7年)3月9日、後鳥羽上皇は藤原忠綱を使者として鎌倉に下向させ、源実朝の死を弔うとともに、摂津国の長江・倉橋の両荘の地頭職を改補するよう要求しています。

(御家人の所領安堵で成り立つ鎌倉政権にとって、このような要求を受け入れることはできません。)

3月12日、北条政子邸に参集した北条義時北条時房北条泰時大江広元は、この要求を拒絶することを決定しています。

(「源頼朝の補任した地頭職は改補しない」というのが鎌倉幕府の原則です。)


『北条九代記』によると・・・

長江・倉橋の両荘は後鳥羽院領。

後鳥羽上皇の近くに仕えて寵愛されていた白拍子の亀菊に下賜されていました。

しかし、地頭が領家(亀菊)の命令を聞かないため、後鳥羽上皇はすぐに地頭を改めるように命じます。

これに対して北条義時は・・・

「地頭職というのは大昔にはなかったもの。

平家を追討した源頼朝卿が総追捕使に任命され、全国に守護と地頭を置くことが許されたのである。

平家討伐の間、御家人らは親を敵に討たれ、あるいは子を討たれ、家臣が痛めつけられた。

そういった忠義の臣下の功労に報いるために頼朝卿は土地を分け与えた。

その土地を過失もないのに取り上げるわけにはいかない」

として命令を拒絶したのだといいます。




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