『吾妻鏡』によると・・・
1180年(治承4年)12月22日、源頼朝は安達盛長に命じて新田義重を呼びつけます。
それは、上野国の寺尾城に軍兵を集めているという噂があったため。
鎌倉にも入れず山内(現在の北鎌倉)に止め置かれた義重は、
「頼朝様に敵対する気持ちはありませんが、各地で戦争が起こっている中、安易に城を出てはいけないと家人らに諌められましたので、躊躇しておりましたら、この命令を受けて大変恐縮しております」
と弁明したのだといいます。
これを盛長が特に強調して取次いだので、許されたのだとか。
同日、平家に従っていた義重の孫の里見義成が、家が再興されたことを聞いて京都から参上します。
石橋山の戦い後、平家が源氏の主だった者を悉く滅ぼすよう命をだしたとき、義成は「関東に下って頼朝を襲撃する考えがある」と偽りを申したところ、平家は喜んで関東下向を許可したのだといいます。
その志は祖父の義重と違うので、頼朝は身近に仕えることを許可したのだとか。
(太田市:大光院)
源頼朝も祀られている!
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