『吾妻鏡』によると・・・
1204年(元久元年)8月4日、源実朝の正室を京都から公卿の娘を迎えることが決まります。
幕府内では足利義兼の娘が候補にあがっていましたが、実朝の強い希望があったのだそうです。
選ばれたのは前大納言坊門信清の息女・坊門姫。
実朝直々の希望で風貌の良い若い勇敢な武士が迎えにいくことになったのだとか。
10月14日、坊門姫を迎えるため北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保・八田知尚・和田宗実・土肥惟光などが上洛し、12月10日、鎌倉に到着しました。
坊門姫の父坊門信清は後鳥羽上皇の母方の叔父。
したがって坊門姫は後鳥羽上皇の従兄妹(いとこ)。
子には恵まれませんでしたが、実朝とは仲が良かったとされ、尼御台の北条政子も坊門姫を立てていたのだと伝えられています。
(伊勢原市)
1211年(建暦元年)7月8日、政子と参詣した薬師如来の霊場・日向薬師。
(三浦市)
1212年(建暦2年)3月9日、実朝は政子と坊門姫を連れて三崎の御所へ出かけ、船中で鶴岡八幡宮の稚児たちの舞楽舞を楽しみました。
三崎の御所とは、源頼朝の椿の御所・桜の御所・桃の御所。
(鎌倉)
永福寺は頼朝が建立した寺院。
1217年(建保5年)3月10日、実朝は坊門姫と同じ牛車に乗って花見に出かけています。
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1219年(建保7年)1月27日、実朝が暗殺されると、翌日、寿福寺の退耕行勇を戒師として出家。
京に戻って、1222年(貞応元年)、実朝の菩提寺・遍照心院(現在の大通寺)を建立しています。
西八条禅尼と呼ばれた坊門姫は、1274年(文永11年9月18日に死去(享年82)。
寺に何か問題が起こったときは安達泰盛に訴えるよう遺言していたそうです。
泰盛は、実朝に尽くした安達景盛の孫。
大通寺(万祥山遍照心院)は、坊門姫が実朝の菩提寺として建立したことに始まる。
(高野山)
高野山の金剛三昧院は、政子の発願で頼朝の供養のために建立された禅定院を始まりとする寺院。
実朝が暗殺されると、菩提を弔うために安達景盛が奉行として伽藍を整備し、金剛三昧院と改称されました。
景盛の孫泰盛も金剛三昧院の発展に尽くしています。
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『吾妻鏡』によると・・・
1221年(承久3年)の承久の乱では、坊門姫の兄坊門忠信が葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能とともに合戦の張本として捕らえられます。
葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能は処刑されますが、坊門忠信は北条政子の申し入れで許されています。
📎藍澤五卿神社
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