『吾妻鏡』によると・・・
1199年(建久10年)4月20日、梶原景時と中原仲業が政所に張り紙をします。
その内容は・・・
「小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成等5人を近習とし、これらの者が鎌倉の中で狼藉をはたらいたとしてもそれを許す」
というもの。
さらに、源頼家への対面は、この5人以外は許さないという決定も。
◎小笠原長経
甲斐源氏・小笠原長清の子。
父の長清は弓馬術礼法小笠原流の祖。
通称は弥太郎。
1203年(建仁3年)の比企能員の変で監禁された後、鎌倉を離れたようです。
1247年(宝治元年)11月5日死去。
◎比企宗員
比企能員の子。
通称は三郎。
1203年(建仁3年)の比企能員の変で討死。
◎比企時員
比企能員の子。
通称は弥四郎。
1203年(建仁3年)の比企能員の変で討死。
◎中野能成
信濃国中野郷を本拠とした藤原助弘の子。
通称は五郎。
比企能員の変後、所領を没収されたようですが、「市河文書」には北条時政に所領を安堵されているようです。
建長年間に死去と伝えられています。
◎北条時連
『吾妻鏡』には四人の名しか記されていませんが、もう一人は北条時連と考えられます。
時連は北条時政の子で、のちの時房です。
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その年の7月26日には、小笠原長経・比企宗員・和田朝盛・中野能成・細野四郎の5人以外は、御所の北側の建物には来てはならないと定めます。
その建物とは、中野能成に命じて奪った安達景盛の妾を住まわせた所。
◎和田朝盛
和田義盛の孫。
1213年(建保元年)の和田合戦で一族は滅びますが、朝盛は生き延び、1221年(承久3年)の承久の乱では後鳥羽上皇に付きました。
承久の乱後の動向ははっきりとしません。
◎細野四郎
詳細は不明。
1203年(建仁3年)の比企能員の変で、小笠原長経や中野能成とともに監禁されたようですが・・・
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4月と7月では、頼家の近習5人は変わっているようですが、比企時員や北条時連が近習から外されたということではなさそうです。
比企時員は頼家が飼っている猟犬の世話を命じられていますし、北条時連は蹴鞠に参加しています。
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