第18話は、壇ノ浦の戦い。
安徳天皇と三種の神器の一つ剣は取り戻すことはできませんでしたが平家は滅亡。
しかし、大活躍して鎌倉に凱旋しようとした義経は、鎌倉に入ることを許されませんでした。
それは、義経が強すぎるから・・・
次回は兄弟の亀裂。
『吾妻鏡』によると・・・
2月18日丑尅(午前2時頃)、源義経は摂津国の渡部の津から五艘の船を出航させます。
卯尅(午前6時頃)、阿波国の椿港に到着。
直ちに150騎ととも上陸し、阿波国の近藤親家を案内人として屋島へ。
2月19日辰尅(午前8時頃)、屋島の平家軍を攻撃。
平宗盛は、安徳天皇と一門を連れて海上の船へと逃亡しました。
この合戦では、佐藤継信が討死。
2月21日には、讃岐国志度の志度寺へ立て籠もった平家軍を降伏させています。
敗れた平家は、瀬戸内海を転々としたのち長門国の彦島に本陣を布きます。
そして、3月24日、源平両軍は壇ノ浦の海上で最後の合戦をすることに。
その結果、平家軍の敗北。
多くの者が海に没しました。
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佐藤継信は、平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けたのだとか。
洲崎寺は、屋島の戦いで負傷した源氏軍の兵士が運ばれた寺。
赤間神宮は、1185年(元暦2年)3月24日、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」で幼くして亡くなった安徳天皇を祀る社。
安徳天皇阿弥陀寺陵(あんとくてんのうあみだじのみささぎ)は安徳天皇の御陵。
7基ずつ2列に計14基の墓が並び、「七盛塚」とも「平家塚」とも呼ばれている。
1185年(元暦2年)5月、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉へ凱旋しようとしますが、兄の頼朝は鎌倉に入ることを許しませんでした。
「腰越状」は、義経が頼朝の側近大江広元あてに送った弁明書。
腰越の満福寺で書かれたのだといいます。
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2022年の大河ドラマ