九条兼実(くじょう かねざね)は、平安末期から鎌倉初期の公卿。
関白・藤原忠通の三男。
母は藤原仲光の娘加賀局。
同母弟に天台座主(延暦寺の貫主)となった慈円がいる。
五摂家の一つ九条家の祖で四代将軍となる九条頼経は曾孫。
1166年(仁安元年))に右大臣。
1186年(文治2年)に摂政。
1191年(建久2年)から1196年(建久7年)まで関白の地位にあった。
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~頼朝追討の院宣と兼実~
『吾妻鏡』によると・・・
1185年(文治元年)10月18日、後白河法皇は源義経と源行家に「頼朝追討の宣旨」を下します。
これに怒った源頼朝は、10月29日、自ら出陣し、11月1日には黄瀬川宿に到達します。
一方、義経は思うように兵が集まらず11月3日、都を落ちました。
11月8日、頼朝は鎌倉へ引き上げますが、以後、朝廷に対して強硬な態度で望みます。
11月10日、鎌倉に帰った頼朝に一条能保が伝えたことは、
「頼朝追討の宣旨」については、左大臣経宗・右大臣兼実・内大臣実貞らが協議したが、兼実の意見は、全て関東を贔屓している言葉だったのだとか。
やがて、頼朝のもとに義経と行家に味方した公家や北面の武士の仔細が報告されると、12月6日、頼朝はこれらの者に罪科を与える文書を奏上します。
その中には、兼実を内覧とする宣旨の要求や、兼実に伊予国の国司任命権を与える要求もあったようです。
※「内覧」とは、天皇へ出す文書を予め眼を通し取捨選択をする役。
翌年2月27日には兼実を摂政に推挙しています(3月12日宣下)。
その理由は、今の摂政近衛基通は、平家と親しくしていた人物で頼朝の事をよく思っていないところがあり、義経が謀反を起こした時も頼朝追討の宣旨を出させたのは基通の発案だったからなのだとか。
春日大社は藤原氏の氏神。
兼実は妻子らととも度々参拝していたのだという。
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~上洛した頼朝との対面~
貴族社会に一定の秩序と安定をもたらした兼実。
1190年(文治6年)には後鳥羽天皇の元服の加冠役を務め、娘の任子を入内させて中宮とします。
その一方で、兼実の執政下で昇進が抑えられてきた土御門通親は後白河法皇が寵愛していた丹後局と結びつき、兼実の執政に反発する勢力となっていきました。
1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、翌1190年(建久元年)に上洛。
11月9日、兼実と頼朝は閑院内裏の鬼間で初対面します。
その中で頼朝は次のように述べたのだといいます。
「いまの世は法皇が思うがままに天下の政治をとり、天皇とても皇太子と変わりないありさま。
目下のところはいたしかたないが、さいわいにあなたもお若くてまだ先が長い。
私にも運があれば、法皇御万歳の後には天下の政を正しくする日がやってくるでしょう」
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~征夷大将軍と兼実~
1192年(建久3年)3月、後白河法皇が崩御。
後白河法皇の死は政治に大きな変化をもたらします。
兼実が関白となり、兼実の弟慈円は天台座主(延暦寺の貫主)となります。
そして、7月12日、頼朝は兼実の計らいで後鳥羽天皇から征夷大将軍に任命されます。
関白となって政治の主導権を握った兼実は、南都焼討によって荒廃していた興福寺や東大寺の復興にも力を注ぎますが・・・
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~失脚~
1195年(建久6年)に東大寺大仏殿の落慶供養に参列するため上洛した頼朝は、娘の大姫を入内させるため、兼実と敵対関係にあった土御門通親と丹後局に近づきます。
頼朝の支持が、兼実から丹後局と通親に移ったことで、翌1196年(建久7年)11月25日、兼実は関白の地位を追われて失脚。
その後政界に復帰することはなく、1207年(承元元年)4月5日死去。
法性寺に葬られました。
東福寺は、兼実の孫道家が、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺内に九条家の菩提寺として伽藍を建立したことに始まる寺院。
東福寺にある最勝金剛院は兼実の廟所。
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鎌倉との繋がりを求めて。
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