第十一話は、なんと義時が八重姫にふられるというシーンから・・・
でもまだわかりません。
予定どおり江間郷を手に入れましたから・・・
頼朝は・・・
1180年(治承4年)12月12日、新造の御所で坂東武者から「鎌倉の主」に推戴されました。
頼朝に仕える武者たちは御家人と呼ばれるようになり、和田義盛が侍所別当に、梶原景時が侍所所司の役に就きました。
その後、平清盛が死去し、頼朝の弟義円が討死し、伊東祐親がこの世を去り、一気に時が進んでいます。
次回は、頼朝の浮気が発覚。
政子が激怒するようです。
(京都)
三十三間堂は、1164年(長寛2年)、後白河法皇が平清盛に資材協力を命じて創建した蓮華王院の本堂。
後白河法皇の院御所「法住寺殿」の一画に建てられました。
1183年(寿永2年)、木曽義仲の焼き討ちによって損傷した蓮華王院を再建したのは源頼朝でした。
(京都)
清盛をはじめとする平家一門は六波羅に拠点を置いていました。
六波羅蜜寺周辺には平家一門の屋敷が建ち並んでいたのだといいます。
(六波羅蜜寺)
六波羅蜜寺には「平氏六波羅第」の碑が置かれています。
(六波羅蜜寺)
平家一門による武家政権を樹立した平清盛は、1181年(治承5年)閏2月4日、九条河原の平盛国邸(清盛の側近)で亡くなったと伝えられています(享年64歳)。
(京都)
清水寺の参道清水坂を下り、東大路通を越えた松原通沿いには、六道珍皇寺と西福寺があります。
その昔、このあたりは「六道の辻」と呼ばれていたそうです。
平安京の埋葬地・鳥辺野の入口であったためそう呼ばれたのだといいます。
六道珍皇寺は、あの世とこの世の境にある寺として信仰されてきました。
(神戸)
清盛塚は、1286年(弘安9年)に建立された平清盛の供養塔。
長らく清盛の墳墓とされてきたようですが、1923年(大正12年)の調査で墳墓ではないことが判明したのだといいます。
鎌倉幕府九代執権の北条貞時が清盛の供養のために建立したという伝説も。
(神戸)
1180年(治承4年)閏2月4日、平清盛が亡くなると能福寺寺領内に平相国廟が建立されたのだと伝えられています。
能福寺は平家一門の祈願寺でした。
(伊東)
伊東祐親は、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に敵対し、石橋山で勝利しますが、富士川の戦いの際に捕えられ三浦義澄に預けられます。
ドラマでは善児なる人物に殺害されたようですが、『吾妻鏡』には、1182年(養和2年)2月14日、相模国の三浦義澄邸で自ら命を絶ったのだと記録されています。
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2022年の大河ドラマ