(鋸南町:竜島海岸)
1180年(治承4年)8月17日、源頼朝は源氏再興の挙兵。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では鎌倉を目指しての挙兵でした。
しかし、頼朝が次に動き出したのは8月20日。
「鎌倉殿の13人」第五話では、時政がすぐに「鎌倉を目指すべき」と進言したにもかかわらず、18日は観音様を拝む日であるので戦はできないと断り、翌日には中原知親なる顔の長いという男の所領を没収しています(参考:観音信者だった源頼朝)。
『吾妻鏡』にも同じようなことが記されていますが、そんなことをしている時間があったのでしょうか?
「鎌倉殿の13人」では、山木館襲撃に集まった人数は二十数人。
おそらく、そんなものだったのでしょう。
石橋山の戦いでも三百騎だったといわれています。
だとすると、山木館襲撃後すぐに鎌倉を目指したとしても、大庭景親の軍勢に阻まれいたでしょう。
日を置けば、さらにその可能性は高くなるはず。
しかし、何かを待っていたのだとすれば、日を置く意味が出てきます。
それは三浦の軍船。
その軍船で安房国へ渡ろうとしていたのだとしたら。
しかし、誤算だったのは悪天候のため三浦軍が軍船を出せなかった事。
『吾妻鏡』にも三浦軍は海路を使って参陣する予定だったことが記録されています。
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軍船を出せなかった三浦軍は陸路で石橋山へ向かいますが、間に合わず、頼朝の敗北を聞いて三浦へ引き返します。
しかし、途中の由比ヶ浜で大庭景親の出動要請に応じた畠山重忠と合戦となり、さらに、その後の衣笠合戦で総帥の三浦義明が討死(小坪・衣笠合戦)。