1159年(平治元年)、後白河院政派と二条親政派が対立し、さらに院内部でも信西と藤原信頼が対立します。
そして、12月9日、藤原信頼と組んだ源義朝は、後白河上皇の院御所「三条殿」を夜襲。
後白河上皇を連れ去って幽閉し、信西を殺害。
信西追討の恩賞として播磨守に任官され、嫡子頼朝は右兵衛佐に任ぜられました。
しかし、12月27日、二条親政派の平清盛に敗れ、後白河院政派は壊滅。
義朝は都を落ちて東国へと向かいますが、尾張国野間で家臣に暗殺されています。
頼朝は捕えられて伊豆国流罪となりました。
三条東殿遺址は、後白河上皇の院御所があった地で、平治の乱の勃発の地。
三条通の東西には三条殿と呼ばれる御所があって、三条東殿・三条西殿と呼ばれていたそうです。
三条東殿は、白河法皇・鳥羽上皇・後白河上皇の院御所となりました。
義朝の夜襲で多くの官女が三條東殿の井戸に入って非業の死をとげたと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
鎌倉との繋がりを求めて。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2022年の大河ドラマ