1203年(建仁3年)9月2日朝、二代将軍源頼家は、比企能員を御所に呼び出し、北条時政追討の密議をしていました。
この密議を聞いていた者がいます。
頼家の母北条政子です。
障子を隔てて聞いていたのだそうです。
政子は、すぐにこのことを父時政に連絡します。
驚いた時政は、大江広元を訪れ、
「先手をうって比企能員を征伐する」
という考えでいることを明かします。
広元の返事は、
「武士でない自分には兵法を論ずることはできませんので、能員を討つかどうかは、賢明なご判断を・・・」
というものだったといいます。
※『吾妻鏡』でのこの広元の言葉は、「時政にすべて任せた」というものなのでしょうかね・・・?
時政の比企討伐は、この日のうちに決行されます。
広元の言葉を聞いた時政は、すぐに席を立ち、荏柄天神社の前で、供をしていた天野遠景と仁田忠常に、こう告げます。
「今日、比企能員を討伐するので、討手を差し向けていただきたい」と。
すると、天野遠景は、
「軍兵を差し向けるまでもありません。
御前にお召しになって成敗したとしても、あの老人に何ができるでしょう」
と言ったといいます。
時政は、様々な考えを巡らせたのでしょう。
そして、薬師如来像の供養にかこつけて比企能員を自邸に誘き出します。
(この像は、以前より造らせていたものだといいます。)
時政の使者に対して、能員は、
「さっそく出掛けましょう」
と返事をしますが、
時政の招待に危険を感じた能員の子息や親類は、能員を制止したり、武装の兵を同行させるよう能員に訴えます。
しかし、能員は
「武装することは、かえって人の疑いを招く。
甲冑の兵士を連れていけば、鎌倉中のものが騒ぐことになる。
おそらく、仏像の開眼式を催されるかたわら、この度の将軍の遺産分割についての話し合いがおこなわれるのであろう」
といって、聞き入れませんでした。
一方、時政は、鎧兜に身を固め、中野能成と市河行重に弓矢を携えて門に構えるよう指示。
天野遠景と仁田忠常は、腹巻(簡易な鎧)を着用し、西南の脇戸の内側に構えていました。
時政邸にやってきた能員は、総門を入って廊下の沓脱石に上がり、妻戸を通って北側へ行こうとしますが・・・
その時、遠景と忠常が、門の脇から出てきて能員の左右の手を掴み、山裾の竹林へ引きずり込んで殺害。
時政は、客間からこの様子を見ていたのだといいます。
(妙本寺)
(妙本寺)
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2022年の大河ドラマ