『平家物語』によると・・・
源頼朝は、1159年(平治元年)12月に父義朝が起こした謀反(平治の乱)によって死罪となるはずでしたが、平清盛の継母池禅尼の懇願により、1160年(永暦元年)3月20日に伊豆国の蛭ヶ小島に流罪となりました。
伊豆国で約20年を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をします。
それは、高尾(京都)の文覚上人に勧められたからなのだそうです。
(伊豆の国市)
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文覚が修行のため住んでいたという高尾には称徳天皇の時代に建立された神護寺という寺がありましたが、長い間修繕されていなかったため荒廃し、住職もいない状況だったのだといいます。
この神護寺を再興させようと願った文覚は、勧進帳を持って布施をする人を求めて歩き回っていたそうです。
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ある時、後白河法皇の院御所法住寺殿に参り、寄進を奏上することにします。
後白河法皇は管弦と歌の催しの最中でしたので奏聞にも及びませんでしたが、荒法師だった文覚は法住寺殿の中庭に入って大音声を上げて勧進帳を読み上げ、寄進を強要したのだといいます。
そのため、法皇の怒りに遭い、伊豆国に流されることとなったのだそうです。
三十三間堂は、後白河法皇が平清盛に命じて創建した蓮華王院の本堂。
後白河法皇の院御所法住寺殿の一画に建てられました。
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文覚が流されたのは、源頼朝のいる蛭ヶ小島に近い奈古屋(奈古谷)でした。
日頃、頼朝の許を訪ねて話しをしていた文覚は、ある時、謀反を起こして平家に代わって日本国を従えるよう勧めます。
頼朝が「池禅尼に命を助けられた身であるから、その恩に報いるために、毎日法華経を唱えるほかは、何もしたいとは思わない」と答えると、
文覚は「時が巡ってきているのに行動を起こさなければ、かえって災いを受ける」と言って懐より白い布で包んだ髑髏を一つ取り出しました。
それは、平治の乱後、尾張国野間で家臣の裏切りに遭い暗殺された頼朝の父義朝のものでした。
その後、文覚は都へ上り、院宣を賜って戻ってきたのだとか・・・
頼朝は院宣を錦の袋に入れて、石橋山の戦いの時も首に掛けていたのだといいます。
(伊豆の国市)
毘沙門堂は、文覚が草庵を結んだ場所と伝えられています。
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