1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠は北条時政の謀略により二俣川で討たれました。
横浜市旭区内には、重忠ゆかりの史跡が多く残されています。
愛甲季隆の矢に当たって最期を遂げたという重忠。
首塚は、重忠の首が祀られた場所と伝えられています。
首塚の近くには首洗い井戸もあったようですが、今はありません。
この辺りには、北条軍の射た無数の矢が落下し、矢の畑のようだったのだといいます。
清来寺は、重忠の武勇を讃える絵巻が伝えられている寺。
薬王寺は重忠の霊堂。
(薬王寺)
六ッ塚は、重忠をはじめとする一族郎党134騎が葬られたという六つの塚。
すずり石水は、重忠が布陣した際に墨をすったという湧水。
駕籠塚は、重忠の内室といわれる菊の前の墓所。
菊の前は、戦場に駆け付けましたが、重忠が討たれたことを知って自害したのだといいます。
重忠の功績を讃える碑。
『吾妻鏡』によると、北条時政から畠山謀反の話を聞かされた北条義時と北条時房は、
「畠山重忠は治承4年の源頼朝様の挙兵以来、忠義を尽くしています。
源頼朝様もその志を鑑みて、息子らを守護するよう丁寧に頼んでいます。
とりわけ、源頼家様の味方だったにも関わらず、比企能員との戦い(比企能員の変)では我々に味方して忠義を尽くしてくれたのは、親子の義理を重んじたからです(重忠の正室は時政の娘)。
それなのに何を理由に謀反を企てるのでしょうか・・・
もし、重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば後悔することになります。
事の真偽を確認してからでも遅くはありません」
と主張。
時政は何も言えずに席を立ったのだといいます。
その後、牧の方の使いで北条義時館にやってきた牧時親は、牧の方の伝言を伝えます。
「畠山重忠の謀反はすでに明白。
将軍のため、世のために時政殿が伝えたにもかかわず、貴殿が申されることは、重忠に代わって悪だくみをごまかそうとしている。
私が継母だから讒言者にしようというのか・・・」
これによって義時は考え直すことにしたようです。
そして6月22日、重忠が鎌倉へ向かっているとの噂が流れると、その途上で誅殺するよう命令が下り、義時らが出陣。
重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれました。
鎌倉に帰った義時は時政に
「重忠の弟や親類は他所へ赴いていた。
従っていたのは僅かに百騎ほど。
重忠が謀反を企てたというのは虚言である。
讒訴によって征伐されたのでは不便極まりない。
首実検で重忠を見たとき、涙を止めることができなかった」
と報告すると、時政は何も言えなかったそうです。
それから2か月後の閏7月19日、時政と牧の方の謀反が発覚(牧氏の変)。
時政は伊豆へ追放されています。
鎌倉武士の鑑
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