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2022年5月11日水曜日

建長寺の塔頭回春院と原田地蔵の伝説




『新編鎌倉志』によると・・・

建長寺の塔頭回春庵(回春院)の山の上には原田地蔵があって、地中に掘り埋めてあったのだといいます。

この地蔵は、原田種直の子が鎌倉に来て、父の骨と由比の戦死者の骨を取り集めて粉にして作ったものだったのだといいます。


原田種直は・・・

筑前国の武将で、1185年(元暦2年)2月1日、源範頼が率いる平家追討軍と戦い敗れています(葦屋浦の戦い)。

平家滅亡後は捕えられて鎌倉に幽閉されていたのだと伝えられています。


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原田種直と地蔵尊の伝説は、愛知県豊橋市にも伝えられています。

民話「千体骨地蔵」によると・・・

葦屋浦の戦いで敗れた原田種直は、捕えれて鎌倉の土牢に幽閉されてしまいます。

その時、種直の妻・栄燿は、お腹に子を授かっていました。

合戦後、男子が誕生して花若丸と名付けられます。

花若丸が13歳になった時の事。

父が敗れた葦屋浦に出かけます。

そこには、戦死した武将たちのものと思われる骨がたくさんありました。

花若丸は、その骨をすりつぶして、心を込めて小さな地蔵像を千体作り上げました。

そして、千体の地蔵像を厨子に入れて、父の許しを請うために鎌倉へと旅立ちます。

千体の地蔵像を背負い、念仏を唱えながら旅をする花若丸の噂は、やがて源頼朝の耳にも入ります。

頼朝に召された花若丸は、自分が原田種直の子であることや鎌倉へ来た理由を語ります。

花若丸の親を思う気持ちに打たれた頼朝は、種直の罪を許したのだとか。

その後、種直たちは、三河国の足助に住むことに。

足助に向かう道中で見た花ケ崎が葦屋浦に似ていたことから、そこに正林寺を建立して千体骨地蔵を安置したのだといいます。


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『新編鎌倉志』は原田種直が亡くなった後のことで、「千体骨地蔵」の民話では生存中のことという違いはありますが、戦死した者の供養のために地蔵像を作ったという話は一致しているようです。

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回春庵跡


建長寺は、地獄谷と呼ばれた処刑場跡に建てられた寺。

建長寺が建立されるまでは、その鎮魂のため、地蔵尊を本尊とした心平寺がありました。

その心平寺は回春院(回春庵)の辺りにあったのだといいます。

そして、創建時の回春院は、現在地から山深く入った所にあったのだそうです。




建長寺の本尊は地蔵菩薩ですが、その理由は地蔵菩薩を本尊とする心平寺があったためと言われています。

ただ、原田種直の子が作った地蔵尊がこの地にあったとするなら、心平寺よりも前に地蔵菩薩を本尊とした地蔵堂があったのかもしれません。







建長寺








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