朝比奈義秀:『前賢故実』より
~国立国会図書館デジタルコレクション~
朝比奈義秀は、侍所別当和田義盛の三男。
安房国朝夷郡を所領としたことから朝比奈を名乗ったのだといいます。
母は不明ですが、『源平盛衰記』では木曽義仲に仕えた女武者・巴御前が産んだのだとされています。
1213年(建暦3年)に和田義盛が起こした北条義時への反乱では、めざましい奮戦をみせた武将です。
『吾妻鏡』によると・・・
5月2日、挙兵した和田軍は御所を攻めます。
御所に乱入した朝比奈義秀の猛威は「神の如し」で、戦った者は死を免れることはできず、五十嵐小豊次・葛貫三郎盛重・新野左近将監景直・礼羽蓮乗らが命を落としたのだといいます。
高井重茂(和田義茂の子)は、弓を捨てて轡を並べ、雌雄を決しようとします。
馬上で組み合った二人はそのまま落馬し、重茂は討ち取られてしまいます。
義秀が乗馬する前に北条朝時が刀で襲い掛かりますが、かなわず傷を負わされてしまいます。
(御所跡)
足利義氏は、政所前の筋替橋付近で義秀と遭遇。
義秀に鎧袖を掴まれますが、義氏が馬に鞭を打って堀を飛び越えると、鎧袖がちぎれ落馬もせずに逃れることができたのだといいます。
武田信光は、若宮大路の米町口(下の下馬橋付近)で義秀と遭遇。
両者は睨み合って戦おうとしますが、信光の子信忠が身代わりになろうと割って入ります。
父に代わって死を選んだ信忠に感じ入った義秀は、戦わずして走り去ったのだといいます。
のちに信忠は、北条泰時に「皆朝比奈義秀の武威を怖れ、ある者は出会わないように行動し、ある者は見かけただけで逃げ去り、義秀に遭遇することは不幸だと考えていました」と述べています。
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若宮大路の琵琶橋も激戦地になったようです。
『吾妻鏡』には記されていないようですが、八田知家の四男宍戸家政が義秀と戦って討死したのだといいます。
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