『吾妻鏡』によると・・・
1184年(寿永3年)1月29日、平家追討の命を受けた源範頼と源義経が一ノ谷へ向けて京都を発ちました。
2月5日、摂津国に到着。
2月7日を開戦と決めます。
大手口の総大将は源範頼。
従うのは・・・
小山朝政・武田有義・板垣兼信・下河辺行平・長沼宗政・千葉常胤・佐貫広綱・畠山重忠・稲毛重成・稲毛重朝・稲毛行重・梶原景時・梶原景季・梶原景高・相馬師常・国分胤道・東胤頼・中条家長・海老名太郎・小野寺通綱・曽我祐信・庄司忠家・庄司広方・塩谷惟広・庄家長・秩父行綱・安保実光・中村時経・河原高直・河原忠家・小代行平・久下重光をはじめとする五万六千騎。
搦手の総大将は源義経。
従うのは・・・
安田義定・大内惟義・山名義範・中原親能・田代信綱・大河戸広行・土肥実平・三浦義連・糟屋有季・平山季重・平佐古為重・熊谷直実・熊谷直家・小河祐義・山田重澄・原清益・猪俣則綱をはじめとする二万騎。
この報を聞いた平家軍は、平資盛・平有盛・平師盛・平清家・平盛方をはじめとする七千騎余りが摂津国の三草山の西に到着。
源氏は三草山から東に布陣します。
源義経は、田代信綱や土肥実平と相談をして、夜中に平資盛を襲撃。
平家は慌てふためいて逃げ散ってしまったのだといいます。
2月7日、寅剋(午前四時頃)に、源義経は、七十騎余りの精兵とともに一ノ谷の裏山鵯越に到着。
卯剋(午前六時頃)、熊谷直実・平山季重らが山陽道から一ノ谷を襲撃。
藤原景綱・平盛嗣、上総忠光、平景清ら二十三騎が熊谷らと戦い、直実の子直家が負傷し、季重の家臣が討たれています。
その後、大手の源範頼軍が一ノ谷に到着。
源平の軍隊が入り乱れる中、源義経が鵯越から攻め寄せます。
猪・鹿・兎・狐以外は通れない険しい山から攻め寄せられた平家軍は、その状況を考える暇もなく敗走したのだといいます。
平重衡は梶原景時・家国たちに捕えられ、平通盛は源俊綱に討たれました。
そのほかに平忠度・平経俊・平知章・平敦盛・平業盛・平盛俊が討ち取られ、平経正・平教経・平師盛が捕えられています。
敗れた平家軍は屋島へ逃れました。
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2022年の大河ドラマ