三浦義澄:『前賢故実』より
~国立国会図書館デジタルコレクション~
三浦義澄(みうらよしずみ)は、三浦氏の一族で三浦義明の次男。
1159年(平治元年)の平治の乱では源氏十七騎の一人として活躍。
1164年(長寛2年)、兄の杉本義宗が死去したことにより三浦氏の家督を継いだ。
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、一族とともに石橋山へと駆けつけるが間に合わず、引き上げる途中の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠と合戦となり、衣笠合戦で父の義明を失った。
衣笠城を落ちた義澄は、安房国へと渡って頼朝と合流し、ともに鎌倉入りを果たした。
その後も一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いで武功を挙げ、奥州征伐では千葉常胤が献上した源氏の旗二幅を義澄が鶴岡八幡宮で七日間の加持祈祷を受けるよう命じられている。
1192年(建久3年)、鶴岡八幡宮で行われた頼朝の征夷大将軍の辞令交付では、義澄が辞令を受け取った。
1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去。
1月20日には頼家が家督を相続するが、4月12日になると頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定される。
義澄もその一人に加わった。
1200年(正治2年)1月23日、死去(享年74)。
義澄らの連判状によって鎌倉を追放された梶原景時が駿河国で討ち取られた3日後のことだった。
(薬王寺跡)
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2022年の大河は北条義時