三峰山神社
樋爪氏の墓
宇都宮市の三峰山神社にある奥州藤原氏の傍流橋爪氏のものと伝えられている墓塔。
樋爪氏は、樋爪俊衡が現在の岩手県紫波町日詰箱清水あたりに樋爪館を構えてことに始まります。
俊衡は奥州藤原氏初代清衡の四男清綱の子。
三峰山神社の案内板によると・・・
源頼朝が生贄として二荒山神社に奉献した樋爪俊衡と弟の季衡の墓、あるいは、季衡とその子経衡の墓と伝えられているようです。
宇都宮の伝説によると・・・
奥州で捕虜にされた樋爪一族は、故郷の奥州へ帰りたいと逃亡して、斬り殺されてしまったのだとか・・・
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ただ、『吾妻鏡』の記録では、樋爪俊衡は罪を許され、弟の季衡をはじめとする一族は流罪となっています。
『吾妻鏡』によると、
奥州征伐が行われた1189年(文治5年)9月4日、志波郡に頼朝軍が到着すると、大軍に驚いた樋爪俊衡は樋爪館に火をかけて逃亡。
頼朝は三浦義澄・三浦義連・三浦義村に追わせますが、9月15日、俊衡と弟の季衡は降伏して、岩井郡厨河に陣を構えていた頼朝のもとに出頭。
俊衡の子師衡・兼衡・忠衡、季衡の子経衡も一緒でした。
俊衡らの躰をみて哀れに思った頼朝は、八田知家に囚人として預けました。
翌日、八田知家から俊衡が法華経を唱え続けていることを聞いた頼朝は、俊衡の罪を許し元の領地(比爪)を安堵。
10月19日、奥州から帰る途中の頼朝は、下野国で二荒山神社を参拝。
祈願成就に感謝して荘園を一箇所寄進し、俊衡の一族を雑務役としました(一族のうちのだれだったのかは不明)。
12月6日、頼朝は俊衡以外の者について流罪にする太政官布告の発出を上申。
12月18日に宣下があって配流先は以下のとおり。
○相模国
藤原秀衡の四男で源義経の首を鎌倉に届けた高衡
俊衡の子師衡
季衡の子経衡
隆衡(?)
○伊豆国
景衡(?)
○駿河国
俊衡の子兼衡
○下野国
樋爪季衡
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