1203年(建仁3年)8月10日に源頼家が病気平癒のために書写して三嶋大社に奉納したという般若心経。
『吾妻鏡』によると・・・
1203年(建仁3年)7月20日、急病となった頼家は、翌8月7日にはかなり苦しい容態にあったようです。
その後頼家は・・・
8月27日、頼家が危険な容態となったため、長男一幡が跡を継いで日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、弟の実朝が関西38ヶ国の総地頭となることが決定されました。
この決定に不満を持ったのは比企能員(頼家の乳母夫)です。
9月2日、病床の頼家のところに娘の若狭局(頼家の側室)を遣わして、北条氏征伐の謀り事をしたのだといいます
しかし、北条時政は先手をうって能員を暗殺し、比企一族も北条義時らに攻められ滅亡しました(比企能員の変)。
9月5日、病状が少し回復し、この事件を知った頼家は、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じますが・・・
義盛は文書を時政に差し出しています。
9月7日、北条政子の命により頼家は出家し、翌日には弟の実朝が三代将軍に決定されました。
そして、9月29日、伊豆の修禅寺に流された頼家は、翌年7月18日に暗殺されてしまいます。
23歳でした。
(修禅寺)
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