『吾妻鏡』によると・・・
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、椙山の堀口辺りに陣を構えます。
その頃、北条時政・宗時・義時の親子は大庭景親の軍勢と戦っていましたが、戦いに疲れて峰を登れずにいたため、頼朝とは行動をともにはしてはいませんでした。
時政らに供をしていた武将は、「時政にお供していきたい」と申し出ますが、時政は、「早く頼朝を捜してお供をするように」と命じたのだといいます。
その後、時政と義時は箱根の湯坂道を通って甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原へ下り平井郷へ向かいます。
このとき、宗時は早川で伊東祐親軍に囲まれて討たれてしまいます。
甲斐国へ向かおうとしていたはずの時政は・・・
夜には頼朝の椙山の陣にいました。
この日のうちに頼朝は箱根権現へ。
※湯坂路は箱根湯本から芦之湯へ至る古道。
❓甲斐国へ向かう途中で頼朝と合流したのだろうか?湯坂路を登ったはずの時政が椙山の陣に行けるのだろうか???椙山の陣が何処かは不明だが頼朝が隠れ潜んだという「しとどの窟」周辺なのかと・・・
8月25日、頼朝は箱根権現を出て土肥郷へと向かい、時政は事の次第を甲斐源氏に伝えるため箱根権現の僧の案内で甲斐国へ向かいます。
ところが・・・
頼朝の落ち延び先を確認するために引き返し、土肥郷へ向かっています。
❓甲斐国へ向かったのはおそらく頼朝の命のはず、頼朝はこれからの行動予定を知らせていなかったのだろうか・・・
8月27日、時政・義時父子と岡崎義実が土肥郷の岩浦(現在の真鶴町岩海岸)から安房国へ向けて船出。
8月29日には、前日に船出した頼朝を安房国平北郡猟島で出迎えています。
❓何故、頼朝より先に船出したのだろうか、先に行って様子を確かめるためなのだろうか・・・
9月8日、頼朝は時政に甲斐国へ行くよう命じます。
そして、9月15日に甲斐国に到着。
石橋山の戦い後に甲斐国を目指してから約20日後のことでした。
石橋山での敗戦後、北条時政が甲斐国へ赴くまでの途中経過は文献によって異なりますが、武田信義をはじめとする甲斐源氏と合流したことは事実のようです。
気になるのは・・・
石橋山での敗戦後、
頼朝の命で甲斐国へ向かおうとしたのか?それとも、甲斐国へ逃亡しようとしたのか?
ということ。
『吾妻鏡』は北条氏の側にたった歴史書。
石橋山敗戦後の記述は、頼朝を見捨てて逃亡した時政をなんとか庇おうとして作られた話で、史実の中にいるはずのない時政を入れ込んだため、意味不明の記述になってしまったのかもしれません。
参考までに、『延慶本平家物語』は「石橋山の敗戦後、北条時政・同じく子息義時父子二人はそれより山伝ひに甲斐国へぞ趣きける」と伝えています。