法住寺殿は、1161年(永暦2年)に建てられた後白河法皇の院御所。
広大な敷地に北殿上御所、北殿下御所、南殿の三御所が建てられ、1163年(長寛元年)には、平清盛に資材協力を命じて 南殿の北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立されました。
※南殿が法皇の住居だったようです。
しかし、1183年(寿永2年)11月19日、法皇と対立した木曽義仲が南殿に放火して押し入ったことにより、法皇は六条西洞院の長講堂に移っています。
ただ、1191年(建久2年)10月1日の『吾妻鏡』には、木曽義仲の反乱軍が法住寺殿に乱入した記事は載せられていますが、火をかけたという記事はありません。
また、1185年(文治元年)の地震で崩れたり傾いたりしていたので、関東の処理として修理を加えたことが記されています。
義仲の襲撃によって被害は受けたものの、その程度は軽かったようです。
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~頼朝の法住寺殿修造~
源頼朝は上洛した翌年の1191年(建久2年)2月21日、法住寺殿の修造に取りかかります。
指揮担当者には、中原親能・大江広元・昌寛の三名が選任されています。
そして、12月24日、中原親能と大江広元らの使いが京都から到着。
17日に後白河法皇が六条殿から法住寺殿へ移り、滞りなく作業が終了したことが報告されました。
一条能保の記録によると・・・
摂政九条兼実、右大将藤原頼実、新大納言藤原忠良、左大将九条良経、中納言藤原定能、右衛門督久我通親、中納言坊門親信、民部卿吉田經房、権中納言坊門泰通、別当一条能保、中納言平親宗、右衛門督藤原隆房、左宰相中将中御門実實教、大宮権大夫葉室光雅、藤宰相中将滋野井公時、左大弁藤原定長、三位中将藤原家房、左京大夫藤原季能、藤三位藤原雅隆、前宮内卿季経、六条三位経家、新宰相中将成経、頭中将実明朝臣、頭大蔵卿宗頼朝臣などが集まって御移徙之儀が行われたようです。
翌朝、中原親能と大江広元には剣が下賜されています。
※一条能保は頼朝の姉妹坊門姫の夫。
12月29日には、民部卿吉田経房と二品局高階栄子の書面で、法住寺殿の修繕がとても美しく仕上がったことへの礼が述べられています。
※吉田経房は鎌倉幕府の初代関東申次職に就いた公卿。
※高階栄子は後白河法皇の寵愛を受けた丹後局。
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~参考~
頼朝が法住寺殿の造営に着手した年、鎌倉では3月に鶴岡八幡宮や頼朝の御所が焼失する火災がありました(建久2年の大火)。
にもかかわらず、庶民に負担をかけないで法住寺殿・鶴岡八幡宮を再建したことが素晴らしい事だと『吾妻鏡』は伝えています。
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新しい法住寺殿に移った後白河法皇でしたが・・・
閏12月27日、病気に。
1192年(建久3年)2月4日、頼朝は大江広元を京都へ派遣。
自らは神仏に祈り、刀を石清水八幡宮に奉納するよう命じたのだといいます。
2月22日、入洛した広元からの使者により、法皇が危険な容態にあることが報告されます。
3月16日、京都からの飛脚が鎌倉に到着。
後白河法皇が3月13日に崩御されたとの知らせでした。
法皇は、大原の来迎院の本成房を呼び寄せ、念仏を70回唱え、阿弥陀印を結んで臨終の時を迎えたのだといいます(67歳)。
九条兼実の『玉葉』によると、法皇は法住寺殿に移って間もなく体調を崩します。
一時回復し、閏12月16日には六条殿へ御幸しますが、そこで再び体調を崩してしまったようです。
後白河法皇が崩御すると、法住寺殿の一画に法華堂が建てられて法皇の御陵となりました。
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鎌倉との繋がりを求めて。
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