六波羅は鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。
951年(天暦5年)に空也が建てた西光寺が六波羅蜜寺と改名されたことにより、「六波羅」という地名になったのだという。
平安後期には、伊勢平氏の平正盛が六道珍皇寺付近に邸宅を構えて供養堂を建立し、その子忠盛は六波羅館を置いて伊勢平氏の拠点としました。
忠盛の子清盛の代には、伊勢平氏の繁栄は最盛期となり、六波羅館は清盛の邸宅「泉殿」(いずみどの)を中心に一族の邸宅が建ち並びますが・・・
1183年(寿永2年)7月25日、平家一門は都落ち。
六波羅館は一門の手で焼き払われました。
その後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、1185年(文治元年)には北条時政が京都守護に任命され庁舎が置かれます。
以後、東国武士の拠点となっていました。
1221年(承久3年)の承久の乱後には、六波羅探題が設置され、周辺には探題に仕える武士の邸宅や、将軍上洛の際の御所も設置されていました。
1333年(元弘3年)、六波羅探題は足利尊氏によって攻められ陥落。
室町幕府は洛中を拠点としたため、六波羅は信仰の地としての趣を取り戻していったのだといいます。
建仁寺の勅使門は、六波羅にあった平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したと伝えられている。
東福寺の六波羅門は、六波羅探題にあったものが移築されたと伝えられている。
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鎌倉との繋がりを求めて。