(『図説鎌倉年表』より)
平景清は平家に仕えた武将。
壇ノ浦での敗戦後、自分を匿ってくれた叔父の大日房能忍を殺害したことから「悪七兵衛」と呼ばれるようになりました。
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列した源頼朝を暗殺しようとして捕らえられたのだと伝わっています。
鎌倉七口の一つ仮粧坂の上り口には、景清が閉じこめられたという石牢が残されています。
景清が捕えられたと知った娘の人丸姫。
父に会うために京都より鎌倉に下ってきましたが・・・
会うことは叶いませんでした。
景清の死後、尼となった人丸姫は、景清が幽閉されていた石牢の上に、景清の守本尊(十一面観音像)を祀ったのだと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(奈良:東大寺)
東大寺の転害門は、平重衡の南都焼討の兵火を免れた貴重な建物。
景清はこの門に隠れて頼朝の命を狙ったのだと伝えられています。
そのため「景清門」とも呼ばれるそうです。
(京都:清水寺随求堂前)
清水寺の随求堂前に置かれた石灯籠には、頼朝を暗殺しようとして捕らえられた景清が、牢の中で自らの爪で彫ったという千手観音が祀られているそうです。
(京都:石清水八幡宮)
景清は、石清水八幡宮を参詣した頼朝を狙ったのだとも伝えられています。
石清水八幡宮の表参道と石清水社の分岐点に景清塚があります。
(京都:六波羅蜜寺)
阿古屋は景清の思い人。
阿古屋を捕らえた畠山重忠は、詮議のために琴・三味線・胡弓を弾かせた(阿古屋の琴責め)。
しかし、その音色に一点の乱れもなかったことから、「阿古屋は景清の所在を知らない」として釈放したのだとか・・・。
六波羅蜜寺の清盛塚の横には阿古屋の菩提を弔うための石塔(阿古屋塚)が建てられています。
(鎌倉:安養院)
安養院の人丸塚は、人丸姫の供養塚。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
参考までに・・・
『吾妻鏡』によれば、景清の兄上総五郎兵衛尉忠光は、鎌倉永福寺の造営現場に現れ、源頼朝を暗殺しようとしたのだ伝えられています(参考:源頼朝暗殺計画)。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆