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2020年6月10日水曜日

大江広元と承久の乱


1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を発しました。


鎌倉では、足柄峠と箱根山に関を築いて朝廷軍を待つべきとする案が出されますが・・・


大江広元は、

「関を築いて守るのは長期間を要し、敗北の原因にもなる。

運を天にまかせて、早く軍隊を京都へ向けて送り出すべき」

と主張しました。


北条政子

「上洛しなければ、朝廷軍を破ることはできない。

安保実光をはじめとする武蔵国の軍勢を待って、速やかに上洛せよ」

と命じました。


5月22日、北条泰時が幕府軍の総大将として出陣。

泰時の出陣によって、関東の御家人は悉く京へ向けて出発。

その数は19万騎に達したのだとか。

そして、宇治で北条泰時が、瀬田で北条時房が朝廷軍を破り、6月14日入京。

後鳥羽上皇は、7月9日、隠岐国へ配流されました(1239年(延応元年)2月22日、配所地で崩御)。


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京都進撃を主張した大江広元は、1225年(嘉禄元年)6月10日に亡くなっています。

源頼朝の恩を説いて御家人たちに出陣を命じた北条政子も同年7月11日に亡くなりました。

北条義時は1224年(元仁元年)6月13日、北条泰時は1242年(仁治3年)6月15日に亡くなっています。

いずれの死も、承久の乱で朝廷軍が敗れ、後鳥羽上皇が配流された6月・7月に集中していることから、後鳥羽上皇の怨霊による祟りではないかという噂が流れたのだとか・・・




承久の乱

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