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2020年4月28日火曜日

源頼朝の死因は落馬による怪我、それとも病気???


源頼朝の墓


『吾妻鏡』によると・・・

源頼朝は、1198年(建久9年)12月に稲毛重成が架けた相模川の橋の落成供養に出席し、その帰路に落馬。

それからどれほどの時を経ずして亡くなった(1212年(建暦2年)2月28日条)。


旧相模川橋脚

旧相模川橋脚は、頼朝が渡り初めをした橋の遺構と考えられています。


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頼朝が亡くなったのは、橋の落成供養の翌年1月13日。

1200年(正治2年)1月13日の記事には、法華堂で一周忌が行われ、絵の釈迦三尊像と北条政子が自らの髪の毛で編んだ南無阿弥陀仏の軸が掲げられたことが載せられています。


北条政子頭髪梵字曼荼羅

伊豆山神社「頭髪梵字曼荼羅」は、46文字の梵字が北条政子の髪の毛で編まれているのだというという。


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さて・・・

建暦2年2月28日の記事で落馬したことを記している『吾妻鏡』ですが、同年の10月11日の記事によると・・・

頼朝が落馬したという建久9年の12月に三善康信が霊夢を見て、そのことを病気療養中の頼朝に報告したことが載せられています。

頼朝は病気が治ったら寺を建てるつもりでいたそうですが、その希望は叶うことなく翌年正月に亡くなったのだとか・・・

とすると、落馬の原因は病気ということになるのでしょうか・・・

病気で落馬して、その時に負った怪我が死の原因という事も・・・

頼朝の死因については諸説あるようですが、『吾妻鏡』からすると、頼朝は落馬する前から病気だったということが考えられます。

「病気の頼朝が相模川の橋供養に参列するのか?」というのが疑問となりますが・・・


大慈寺跡碑

頼朝が寺を建てようと考えていたのは大倉の地。

その地に頼朝の子実朝が建てたのが大慈寺






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