鎌倉幕府二代執権の北条義時が鎌倉幕府の権力者となるまでを描いたドラマということです。
鎌倉殿とは鎌倉武家政権の長。
13人とは源頼朝に仕えた有力者たち。
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『吾妻鏡』によると・・・
1199年(建久10年)1月13日、偉大な将軍源頼朝が死去すると、嫡男の頼家は20日に左中将となり、26日には頼朝の家督を相続します。
しかし・・・
頼家の政治手腕に不安を抱いた老臣たちは、4月12日、頼家が直接訴訟を裁断することを停止させ、宿老十三人による合議によって裁判することを決定しています。
その十三人とは、
北条時政
北条義時
大江広元
三善善信
中原親能
三浦義澄
八田知家
和田義盛
比企能員
安達盛長
足立遠元
梶原景時
二階堂行政
これに対して頼家は、4月20日、お気に入りの近衆5人を指名して、「鎌倉の中でこの5人がどのような狼藉を働いたとしても庶民は歯向かってはならない。しかも、この5人以外の者は、頼家にお目通りできない」という決定をしたのだとか。
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「宿老十三人の合議制」は、頼家が若年であるとの理由から執られた措置のようでもありますが、頼家の乳母夫比企氏と北条氏の対立など、幕府の実権争いが根底にあったものと考えられています。
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その後どうなったのか・・・
1199年(正治元年)12月18日、梶原景時が鎌倉を追放され、翌年1月20日、駿河国で滅亡(梶原景時の変)。
1203年(建仁3年)5月19日、頼家への謀叛を企てた阿野全成が捕えられ、6月23日、常陸国で処刑される(阿野全成の誅殺)。
全成は頼朝の異母弟で、北条時政の娘婿。
時政の源実朝擁立の企てに協力していたようです。
1203年(建仁3年)7月、頼家が病に倒れて危篤状態に。
8月27日、家督を日本国総守護職と関東28カ国の地頭職を一幡(頼家の嫡子)に、関西38カ国の地頭職を千幡(のちの実朝)に譲るという措置がとられる。
それを知った頼家は、9月2日、比企能員を呼び出して北条氏を誅伐するよう命令を下しますが・・・
先手を打った北条時政は能員を自邸に誘き出して暗殺、比企一族も北条義時に攻められて滅亡(比企氏の乱(比企能員の変))。
9月7日、頼家は出家、9月15日には、実朝が征夷大将軍に任じられた。
9月29日、頼家は伊豆修禅寺に幽閉され、翌年7月18日に暗殺されている。
1205年(元久2年)6月22日、鎌倉武士の鑑と呼ばれた畠山重忠が北条時政の謀略によって滅亡(畠山重忠の乱)。
1205年(元久2年)閏7月20日、北条時政が追放され、北条義時が二代執権になる(牧の方の陰謀)。
1213年(建暦3年)5月2日、侍所別当の和田義盛が北条義時打倒の兵を挙げるが、翌3日、由比ヶ浜で滅亡(和田合戦)。
1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した源実朝が甥の公暁に暗殺される(源実朝の暗殺)。
1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の宣旨を発するが、6月15日には幕府軍が京市中に入り、幕府軍の勝利に終わる(承久の乱)。
1224年(元仁元年)6月13日、北条義時死去(享年62)。
死後、後妻伊賀の方が、政村(義時の五男、母は伊賀の方)を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍に据えようと企てるが失敗し、伊豆国へ追放されている(伊賀氏の変)。
『吾妻鏡』には、「前奥州禅門の葬送。故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記載されています。
前奥州禅門は北条義時、故右大将家は源頼朝のこと。
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