(鶴岡八幡宮)
『吾妻鏡』によると・・・
1189年(文治5年)正月3日、正月椀飯の宴会中に弓始め式を行うこととした源頼朝。
射手に指名された下河辺行平は、弓場に進み出て蹲踞(そんきょ)して片肌を脱ぎました。
頼朝が行平と競う者を募ると、修理進季長(しゅりのじょうすえなが)が進み出て行平の後ろに蹲踞しましたが・・・
行平は先に進もうとしません。
行平の不満そうな様子を見て取った頼朝は、榛谷重朝を指名します。
席を立った重朝が行平と季長の間に蹲踞すると、行平は前へ進み出て弓を射はじめました。
季長は・・・
恥ずかしくて元の席に戻らず逃げてしまったのだとか・・・。
それから6日後の正月9日、頼朝の嫡男・頼家の小御所でも弓始めがありました。
一番 下河辺行平 対 曽我祐信
二番 結城朝光 対 和田宗実
三番 藤沢清親 対 橘公成
四番 三浦義連 対 海野幸氏
五番 榛谷重朝 対 和田義盛
御所での弓始めの儀式は、この前年の正月6日や1180年(治承4年)12月12日にも記録されていますが、幕府の行事として始められたのは、1189年(文治5年)からなのかもしれません。
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下河辺行平は藤原秀郷の子孫で、頼朝からは「日本無双の弓取」と称賛された武将。
頼朝の嫡男・頼家の弓術師範を務め、1195年(建久6年)11月6日には、頼朝から子孫まで源氏一門に准ずる旨の書面が与えられています。
修理進季長は、おそらく永福寺の扉と仏壇の後壁の絵を描いた画家かと・・・。
榛谷重朝は、桓武平氏・秩父氏の一族。
1181年(治承5年)4月7日、弓術に優れていた重朝は、下河辺行平らとともに頼朝の寝所を警護する11名に選ばれています。
他は、北条義時・結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・葛西清重・三浦義連・千葉胤正・八田知重。
曽我祐信は仇討ちで知られる曽我兄弟の養父。
曽我梅林の梅まつりで催される流鏑馬は、祐信が弓馬の達人だったという故事から始められました。
橘公成は、1180年(治承4年)12月12日、頼朝の新亭で行われた弓始めで射手を務めた武将。
海野幸氏は、木曽義仲に仕えていた武将で、義仲とその子・義高が滅んだ後、頼朝に仕え弓馬四天王の一人に数えられました。
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1191年(建久2年)正月5日の弓始め。
一番 下河辺行平 対 榛谷重朝
二番 和田義盛 対 藤沢清親
1192年(建久3年)正月5日の弓始め。
一番 下河辺行平 対 橘公成
二番 小野義成 対 愛甲季隆
三番 榛谷重朝 対 藤沢清親
1194年(建久5年)正月9日の弓始め。
一番 下河辺行平 対 和田義盛
二番 結城朝光 対 榛谷重朝
三番 海野幸氏 対 藤沢清近
鶴岡八幡宮で1月5日に行われる除魔神事は、源頼朝が幕府で始めた御弓始を起源としています。
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1月1日
1月1日~7日
1月4日
1月5日
1月15日
1月24日~31日
2月3日