1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、先祖の源頼義が創建した由比若宮を現在地に遷座します。
頼朝の武家の都は、鶴岡八幡宮を中心に整備され、参道の若宮大路は京都の朱雀大路を模して造営されたのだと伝えられています。
しかし・・・
1191年(建久2年)3月4日、鶴岡八幡宮は小町大路で発生した火事で焼失してしまいます(建久2年の大火)。
頼朝は、すぐさま再建に取りかかり、大臣山の中腹を削って新たに本宮を創建。
11月21日に遷宮の儀式が執り行われました。
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『吾妻鏡』によると・・・
1191年(建久2年)10月25日、鶴岡八幡宮の遷宮の儀式で「宮人曲」を唄わせるため、頼朝は京都から雅楽家の多好方(おおのよしかた)を招きます。
11月19日、幕府に招かれた好方は、酒宴の席で流行の歌を唄いました。
三善善信の添え唄が、絶妙だったのだといいます。
その場で、頼朝は畠山重忠と梶原景季に神楽の曲を習わせますが、二人の器量に好方は感心したのだとか。
そして、11月21日、遷宮の日。
和田義盛・梶原景時らが随兵を率いて警備に当たり、太刀持ち役の北条義時と小山朝光が頼朝のそばに控え、神殿内へ見送りました。
多好方が「宮人曲」を唄うと、神が感応するほどのめでたい出来事の前ぶれだとして、頼朝も感激したのだといいます。
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建久2年の大火後、頼朝が鶴岡八幡宮を再建し、遷宮したことを記念して行われるのが「御鎮座記念祭」。
11月21日を新暦に換算した12月16日に行われています。
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鶴岡八幡宮は、源頼義が1063年(康平6年)に京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まります。
石清水八幡宮は、京都の裏鬼門を守護する神社として朝廷・公家・武家の尊崇を集め、とくに源氏は氏神として信仰しました。
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