1193年(建久4年)5月28日、源頼朝が催した富士裾野巻狩りの最中に曽我兄弟の仇討ち事件が発生しました。
『保暦間記』によると、
鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わり、心配する北条政子に頼朝の弟範頼は「私がいるから心配ない」と発言。
これを知った頼朝は、範頼の謀叛を疑ったのだとか。
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『吾妻鏡』によると・・・
1193年(建久4年)8月2日、兄の源頼朝に謀叛の疑いを持たれてしまった源範頼は、誓の起請文を提出しました。
その内容は、
謹んで申立ていたします。
私は、頼朝様の代官として、度々戦場へと向かい、朝敵を滅ぼす忠義を尽くしました。
以来、二心など持っておりません。
御子孫の将来にも、同じように貞節を守る所存です。
頼朝様のお心に従っている事は、これまで頂戴した書状にも書かれています。
その書状は、箱の底に秘蔵しております。
しかし、今になって、誤りを犯していないにもかかわらず、謀叛の疑いをかけられてしまい、不便なことです。
いずれにしましても、現在も将来も不忠の思いは持ちません。
子孫にも、この事を直ちに話し聞かせておきます。
万が一にも、この書状の内容に背くようなことがあれば、天界では梵天・帝釈天、下界では伊勢神宮・春日大社・賀茂神社、そして源氏の氏神八幡大菩薩の神罰が源範頼に下されるでしょう。
建久四年八月 日
三河守源範頼
この書状を読んだ頼朝は
「源の文字が書かれているのは、一族として考えているのであろうか?
それは身分不相応な考えである。
起請文の内容が偽りであることを示している」
として、範頼の使者に伝えるよう命じています。
大江広元が、そのことを使者の大夫属重能に伝えると、重能は、
「範頼は、故源義朝殿の御子息です。
頼朝様は御舎弟であることをご存じのはずです。
頼朝様は、去る元暦元年(1184年)秋、範頼が平家討伐の代官として上洛した時には、『弟の範頼を九州に派遣する」ことを後白河法皇に奏聞しています。
その内容は命令書にも載せられています。
全く勝手に行ったわけではありません」
と弁明したとのこと。
それに対する頼朝の言葉はなかったそうです。
重能の報告を受けた範頼は、あわてふためいたのだとか。
謀反の疑いをかけられた源範頼は、修禅寺(信功院)に幽閉されました。
その後、梶原景時に攻められ自刃したと伝えられています。
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