(第12回鎌倉検定試験1級)
源義経は、1159年(平治元年)、源義朝の九男として誕生します。
母は常盤御前。
幼名は牛若。
生まれた年に起こった平治の乱で父義朝が平清盛に敗れたため、同母の兄全成と義円は出家させられ、それぞれ醍醐寺と園城寺に入りました。
異母兄の源頼朝は伊豆に流されています。
義経は11歳の時に鞍馬寺に預けられますが、16歳で寺を抜け出し、奥州平泉の藤原秀衡を頼り、1180年(治承4年)に頼朝が挙兵するとそのもとへ参じました。
その後、木曽義仲の追討、一の谷の戦い、屋島の戦いで活躍し、1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。
しかし、許可なく官位を受けたことなどの問題で頼朝の怒りをかってしまいます。
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1185年(元暦2年)5月、義経は、壇ノ浦の戦いで捕えた平宗盛父子を護送して鎌倉に凱旋しようとします。
しかし、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。
頼朝の許可なく朝廷の官職を受けたことも一つの理由ですが、梶原景時をはじめとする多くの御家人から義経への不満が届いていたようです。
鎌倉に入る事ができない義経は、腰越の満福寺に逗留したのだといいます。
そして、弁明のために書いたのが腰越状です。
満福寺には、弁慶が書いたという腰越状の下書きが残されていますが、
その内容は・・・
源義経おそれながら申し上げます気持は、鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって父の恥をすすぎました。
そこできっとごほうびをいただけると思っていましたのに、はからずも、あらぬつげ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。
私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、おしかりを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。
あらぬつげ口に対し私のいいぶんすらおきき下さらないで、鎌倉にもはいれず、従って日頃の私の気持ちもおつたえできず、数日をこの腰越でむだにすごしております。
あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にもおあいできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、かようなふしあわせなめぐりあいとなったのでしょう。
亡くなられた父のみたまが、再びこの世にでてきて下さらないかぎり、どなたにも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、またあわれんでもいただけないのでしょう。
あの木瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく父は亡くなり、母にだかれて、大和国宇田の郡龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片時も安全な楽しい日はなかったのです。
その当時、京都も動乱がつづき、身の危険もあったので、いろんな所へかくれたり、遠い国へも行ったり、そしていやしい人たちまでにも仕えて、何とかこれまで生きのびてきました。
忽ち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、とび立つ思いで急いでかけつけましたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手はじめに義仲を倒し、つぎに平家を攻めました。
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父のみたまをおやすめする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。
その上軍人として最上の高官である五位ノ慰に任命されましたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。
義経は野心などすこしもございません。
それにもかかわらず、このようなきついお怒りをうけては、この義経の気持ちを、どのようにおつたえしたなら、わかっていただけるのでしょうか、
神仏の加護におすがりするほかないように思いましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書をさしあげましたがお許しがありません。
せめて、あなたのおなさけによって義経の心のうちを、頼朝殿にしらせていただきたいと思います。
うたがいがはれて許されるならば、ご恩は一生忘れません。
元暦二年五月 日
源義経
進上因幡前司殿
※因幡前司は大江広元のこと。
※『吾妻鏡』に記録されている腰越状はこちら。
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腰越状を書いた義経でしたが・・・
頼朝の許しを得ることはできず、6月になると平宗盛父子を護送して帰京することとなります。
※宗盛父子は、入京を目の前にした近江国で斬首されています(参考:宗盛塚)。
京に帰った義経と鎌倉の頼朝との対立はますます激化。
そして、朝敵とされた義経は、奥州平泉の藤原秀衡を頼りますが、秀衡の死後、その子泰衡に攻められ衣川の館で自刃しました。
(平泉・衣川館跡)
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満福寺は、744年(天平16年)に行基が開いたという寺。
境内には「義経公慰霊碑」があり、本堂には「義経と静御前」の別れの場面を描いた三十二面の襖絵があります。
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