(茅ヶ崎市・神明大神宮)
大庭景義は、大庭御厨の懐島郷を本拠とした武将。
保元の乱で、源為朝の矢を足に受けて重傷を負い、歩行困難となってしまいますが、必中必殺の為朝の矢を受けて生き残ったのは景義一人ともいわれています。
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『吾妻鏡』によると・・・
1191年(建久2年)8月1日、新築の御所では、大庭景義が酒肴を献上し、宴会が催されます。
同席者は、足利義兼、千葉常胤、小山朝政、三浦義澄、畠山重忠、八田知家、工藤景光、土屋宗遠、梶原景時、梶原朝景、比企能員、岡崎義実、佐々木盛綱ら。
宴会の席で景義は、頼朝の命により、保元の乱での逸話を語ります。
「勇士が用意すべきものは武具である。
中でも、弓の長さは重要である。
鎮西八郎為朝(源為朝)は、わが国で並ぶ者のいない弓の名人だったが、弓が身丈に対して長すぎたのかもしれない。
保元の乱の際、景義は、大炊御門河原で為朝に出会い、絶体絶命の状況になった。
そのとき、密かに思ったことは、「為朝は鎮西の武将だから、乗馬しているときの弓はそれほどでもないのではないか」ということ。
一方、景義は東国で乗馬に慣れている。
景義が為朝の右にすばやく廻ると、為朝はとっさに後ろを振り返るが、身丈よりも大きい弓を使っていたため、弓が下がり、放った矢は体ではなく膝に当たった。
もし、右に廻る作戦をとらなければ、命を落としていただろう。
若い者たちは「勇士は乗馬の達人であるべきこと」を耳の底に留めておかねばならない」
この話を聞いていた同席者は皆感心し、頼朝からはお褒めの言葉を頂いたのだとか・・・
(茅ヶ崎市)
神明大神宮は、大庭景義が、館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。
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