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2019年6月29日土曜日

源頼朝と鶴岡八幡宮


鶴岡八幡宮


1180年(治承4年)8月、伊豆に流されていた源頼朝は、源氏再興の挙兵をします。

伊豆国の目代山木兼隆を討った頼朝は相模国へ進軍しますが、石橋山の戦いに敗れ、真鶴から舟で安房国に渡りました。

安房国で再起した頼朝は、再び相模国を目指します。

そして、10月7日、鎌倉に入り、由比郷鶴岡にあった鶴岡八幡宮(由比若宮)を遥拝しています。


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~鶴岡八幡宮の遷宮~

鶴岡八幡宮は、頼朝の先祖源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請したがその始まりで、鎌倉に入った頼朝が最初に行ったのは、鶴岡八幡宮の遷宮でした。

10月12日には小林郷北山へ遷し、しばらくの間の別当(長官)職には走湯権現(伊豆山権現)の專光坊良暹が置かれ、事務は大庭景義が命じられています。

『北条九代記』によると、

元の場所から新たな場所へ移すことに神がどのように思われるか心配だった頼朝は、自らが神の前でおみくじを引くと「小林郷へ移るべき」という占いが三度も出たのだとか・・・。


1181年(養和元年)5月13日、前年遷宮を行った鶴岡八幡宮の仮の宮を建て直すため、土肥実平大庭景義を奉行として材木の調達を開始。

武蔵国浅草の大工を呼んで7月8日から工事が始められ、7月20日には上棟式を迎え、8月15日には梶原景時を奉行として新造の正殿に御神体が納められました。

上棟式では、棟梁に与える馬を引く役を命ぜられた源義経が快く引き受けなかったため、頼朝の不興をかったと伝えられています。

📎源義経の大工の馬事件


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~参道の造営~

1182年(養和2年)3月9日、北条政子が懐妊。

3月15日、頼朝は、政子の安産祈願のために若宮大路の造営にとりかかります。

若宮大路は、鶴岡八幡宮を内裏に見立て、平安京の朱雀大路を模して造営された鶴岡八幡宮の参道。


若宮大路

鶴岡八幡宮参道・段葛

若宮大路の中央に一段高く造られたのが「段葛」

若宮大路の造営と同じ時期に造られたものと考えられ、全国で唯一残っている遺構です。

現在は二の鳥居三の鳥居の間に残されているのみですが、造営当時は一の鳥居まで通じていたのだといいます。


源平池

若宮大路の造営と同じくして神池(源平池)の造営も行われました。


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~静の舞~

1186年(文治2年) 3月1日、源義経とともに逃亡していた京の白拍子静御前が、母磯禅師とともに鎌倉に送られてきました。

4月8日、頼朝は鶴岡八幡宮で静を舞わせます。


静の舞

しかし、静は義経を慕う歌にあわせて舞ったことから、頼朝は激怒したのだといいます。

それをとりなした北条政子だったのだとか。

📎北条政子を感動させた静の舞~梁塵を動かす歌と舞~


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~放生会~

1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は、鶴岡八幡宮で放生会を行います。

これが現在の例大祭の始まりとなります。


流鏑馬馬場

この年、鶴岡八幡宮には流鏑馬馬場が造営されました。


流鏑馬

前年の8月15日、西行から弓馬について聞いた頼朝は、この放生会で流鏑馬を奉納しています。

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~五重塔~

1189年(文治5年)、頼朝は亡母・由良御前の供養のため、また、鶴岡八幡宮の伽藍を整備するために五重塔を建てます。

6月9日に供養が行われました。

📎鶴岡八幡宮の五重塔


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~建久2年の大火~

1191年(建久2年)3月4日、小町大路で火事が発生。

強風にあおられた火は、北条義時、大内惟義、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、仁田忠常、工藤行光、佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼き、鶴岡八幡宮五重塔に燃え移ります。

この火事により鶴岡八幡宮は悉く灰燼に帰してしまいました。

3月6日、焼失した鶴岡八幡宮を見た頼朝は涙を流したといいますが、8日には再建工事に着手します。

そして、若宮再建とともに上宮(本宮)を創建し、11月21日に遷宮が行われました(改めて石清水八幡宮の祭神を勧請しています。)。

上宮の建設は、火事による被害を防ぐためだったと考えられています。


御鎮座記念祭

毎年12月16日に行われている「御鎮座記念祭」(御神楽)は、遷宮の際に行われた儀式を再現したものです。






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鶴岡八幡宮


源頼朝挙兵


静の舞

鶴岡八幡宮例大祭

流鏑馬

御神楽


歴史めぐり源頼朝


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