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2019年2月15日金曜日

藤原清衡が建てた平泉の中尊寺

1105年(長治2年)2月15日、奥州藤原氏の祖・清衡は、前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するため、平泉に中尊寺建立に着手します。

それから21年後の1126年(天治3年)3月24日、清衡は中尊寺の落慶供養を行っているようです。

その後の平泉には二代基衡によって毛越寺が、基衡夫人によって観自在王院が、三代秀衡によって無量光院が建立され、奥州藤原氏は栄華を極めます。

しかし、1189年(文治5年)、源頼朝が奥州に攻め入り、9月3日、四代泰衡が殺害されたことにより奥州藤原氏は滅亡しました。

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『吾妻鏡』によると、1189年(文治5年)9月17日、清衡以下三代が建立した堂舎などの事が記された「寺塔已下注文」(じとういげのちゅうもん)という報告書が提出されます。

それによると中尊寺は・・・

堂塔は40余、禅坊は300余。

清衡が奥六郡の管理を初めて最初に建てられた寺で、白川の関(福島県白河市)から外の浜(青森市)までの道に一町(約109m)ごとに、面に金色の阿弥陀像が描かれた笠塔婆を建て、その中央を計り、その山の上に塔を建てた。

寺院の中央には多宝寺があって、釈迦如来と多宝如来を安置。

塔と多宝寺の中間に道を通して関所を置き、旅人の往来の道とした。

釈迦堂には、百余体の釈迦如来像を祀った。

両界堂の仏像は木造で金色。

二階大堂(大長寿院)は、高さは五丈、本尊は三丈の金色阿弥陀仏、脇立の九体の阿弥陀仏は丈六。

金色堂は、建物全てが金色で、堂内には三つの壇があって全て螺鈿で飾られ、阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作。

鎮守は、南に日吉社を崇敬し、北に白山宮を勧請。

その他、宋の一切経を納める経蔵など・・・

清衡は、延暦寺園城寺東大寺興福寺など国内の寺から、中国の天台山まで、寺毎に千僧供養を行った。
(※千僧供養とは、千人の僧を招いて食事を提供し、法会を営むこと。)

そして、死に臨んでは、極楽往生を願う「逆修」を始め、百日目に当たる日に、病気でもないのに、合唱し、念仏と唱えながら、眠るが如く眼を閉じた。

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『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏の滅亡後、中尊寺をはじめとする寺々について源頼朝は、その維持についての命令書を出していました。

しかし、1210年(承元4年)5月25日の条では、寺塔が年月を経て崩壊し、年貢が途絶え、寺僧が嘆いていることが記され、大江広元が奉行となって元のように年貢を送るよう、寺領の地頭に命令を下しています。

その後も鎌倉幕府は、平泉の寺々の修理を地頭に命じていましたが、清衡の建てた中尊寺は、1337年(建武4年)に金色堂を残してほぼ全焼してしまいます。








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