奥州藤原氏の最後の当主となった藤原泰衡。
その最期は哀れなものでした。
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源頼朝の征伐軍が平泉に逼ってくると、泰衡は平泉館を焼き、郎党の河田次郎の本拠・比内郡贄柵に逃げ込みます。
しかし、1189年(文治5年)9月3日、河田次郎に裏切られ殺害されてしまいました。
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9月6日、河田次郎は、泰衡の首を頼朝のもとへ届けます。
河田次郎は褒美に預かれると思っていたのでしょうが・・・
頼朝は、梶原景時に命じて河田次郎にこう伝えさせ、直ちに首を刎ねたのだそうです。
「お前のしたことは手柄のようにも思えるが、泰衡の命はすでに掌中にあったもので、他者の力を借りる必要はなかった。
にもかかわらず、代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪に値する・・・」
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そして、泰衡の首は梟首されるのですが・・・
頼朝は、前九年の役で、先祖の源頼義が安倍貞任の首を「釘で打ち付けて晒した」のと同じように、八寸釘で泰衡の首を打ち付け、晒し首にします。
泰衡の首は父祖が眠る中尊寺金色堂に葬られますが、頼朝を憚ってのことか、長い間、泰衡の弟忠衡のものと伝えらてきたようです。
しかし、1950年(昭和25年)の調査で、眉間と後頭に直径1.5センチメートルの小孔が18センチメートルの長さで頭蓋を貫通していることが判明し、忠衡ではなく泰衡のものであることが確認されたのだそうです。
参考までに、忠衡は義経保護を主張して泰衡と対立し、6月26日に誅殺されていました。
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