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2022年5月10日火曜日

源義経の不行跡と鎌倉追放~源平合戦後に源頼朝がとった措置~


義経と弁慶
源義経と弁慶


1185年(元暦2年)3月24日、平家を壇ノ浦で滅ぼした源義経ですが・・・


4月12日、鎌倉の源頼朝から捕虜を連れて京都へ上るように命が下ります。


4月15日、関東の御家人が、頼朝の推薦を得ずに、朝廷の衛府や所司の官職に任ぜられます。

頼朝は、功績もないのに許せないこととして、官職を受けた者たちに、各々の悪いところ書き添えた命令文書を送付し、墨俣川から東へ下る事を禁じています。

参考までに・・・

義経は前年の8月6日に頼朝に無断で左衛門少尉の任官と検非違使の宣旨を受けています。

そのため平家追討の将軍から一時外されていました。


4月21日、九州から梶原景時の伝令が鎌倉に到着。

書状は、前半に合戦の経過が書かれ、後半は源義経の不行跡を訴えるものでした。

不行跡の内容は・・・

「義経殿の勝利は、頼朝様が御家人を貸し与えたからこそ成しえたもの。

義経殿は自分一人の手柄だと思い込んでいますが、大勢が力を合わせたから勝てたのです。

多くの者は、義経殿の事を考えて戦ったのではなく、ただ頼朝様への忠義を尽くすために、勲功を上げようと励んできました。

にもかかわらず、平家を滅ぼした後の義経殿は、態度が大きくなりました。

従っている者は、本心ではありません。

景時が、頼朝様の意に反した行動を諌めると、それが仇となって処刑されそうになります。

戦いが終わった今、そばに仕える意味もないので、早く許可をいただき関東へ戻りたいと思っております。

侍所の別当(長官)・和田義盛と所司(次官)・梶原景時は、それぞれ範頼殿と義経殿に付けられました。

範頼殿は千葉常胤和田義盛と相談して事に当たりましたが、義経殿は自分一人の考えで行動し、頼朝様のお考えを無視します。

景時に限らず多くの者が恨みに思っています」


5月4日、頼朝は、梶原景時の使者が九州へ帰る時に書状を持たせます。

その内容は・・・

「義経を勘当したので、もう命令に従ってはならない。

ただし、京都に送られた捕虜たちの罪名が決まるまで景時をはじめとする御家人が警護をするように。

勝手に鎌倉へ帰って来ることのないように」


5月7日、京都から亀井重清が鎌倉に到着し、義経の誓約書を持ってきました。

大江広元が取次ぎをしたそうですが・・・

かえって頼朝の怒りを買ってしまったようです。

この日の記事には、源範頼は細かいことまで報告し勝手に判断するようなことはないのに対し、義経はほとんど自分の判断で行動していたということも書かれています。


5月15日、義経が壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗を引き連れて、7日に京都を出発し、今夜、酒匂宿へ到着。

明日、鎌倉へ入る予定であることが工藤景光によって報告されます。

頼朝は、宗盛を受け取るため、北条時政を酒匂宿へ向かわせます。

そして、義経に対しては、鎌倉へは入らず、しばらくその辺りに逗留しているよう命令しています。


5月16日、平宗盛・清宗が鎌倉に入ります。

見物人で大騒ぎの中、宗盛は輿に乗り、清宗は馬に乗り、家来らとともに若宮大路を通っていったそうです。

御所の西の対屋が宗盛父子の居所とされ、晩になって大江広元が食事をすすめますが、ただ泣いてばかりの始末だったそうです。

同日、一条能保に仕える後藤基清の家来と義経に仕える伊勢義盛の家来との間でもめ事があったようです。

それを聞いた頼朝は、伊勢義盛の家来の驕った態度に、大変に腹を立てたようです。


5月24日、腰越驛に逗留していた義経は、大江広元を通じて頼朝に書状を出します。

有名な「腰越状」です。

義経は、これまでの戦いは父祖の恥辱をすすぐためのもので他意はないこと、頼朝への異心はないこと、などを書状で述べたようですが・・・

頼朝からの回答はありませんでした。


6月9日、酒匂宿にいた義経は、平宗盛を引き連れて京都へ向かいました。

頼朝は、橘公長、浅羽宗信、宇佐美実政などを護衛に追加しています。

鎌倉に戻って頼朝に会えば、平家討伐の手柄を褒められるだろうと思っていたのに、会うこともできずに京都へ戻る義経・・・

その恨みは、相当深いものになったようです。

この日、一ノ谷で捕らえられた平重衡もは南都へ向けて鎌倉を出発しています。


6月13日、頼朝は、義経に分け与えていた平家の領地24箇所を全て没収します。

※京都へ戻る時に義経は「関東に恨みを成す者は義経に従え」との詞を吐いていたそうです。


6月21日、近江国の篠原宿に到着した義経は、橘公長に命じて平宗盛を斬首しました。

野路口では堀景光が清宗を処刑しています。


6月23日、宗盛と清宗の首が六条河原で晒されました。

同日、平重衡が南都で首を刎ねられています。


満福寺

腰越の満福寺は義経が腰越状を書いた寺として知られています。


宗盛塚

平家の総大将・平宗盛は、鎌倉へ送られた後、近江の篠原宿で斬首されました。








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