源義経の子は何人いたのだろうか?
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○源有綱の妻
『吾妻鏡』には、「伊豆守・源仲綱の次男・有綱が、義経の婿だと称して、他人の所領を奪いとっている」(1185年(元暦2年)5月19日)という記事があります。
源有綱は、以仁王とともに挙兵した源頼政の孫。
祖父の頼政と父の仲綱は平等院で平家に討たれてしまいますが、有綱は伊豆にいたため助かりました。
源頼朝が挙兵するとそれに従い、源平合戦では義経の与力として活躍しています。
さて・・・
有綱が1185年の時点で義経の娘を妻としていたとすると、妻は何歳なのだろうか?
義経は1174年(承安4年)まで鞍馬寺にいました。
このとき16歳。
鞍馬寺にいる間に子をもうけることはあり得ないこと。
すると、奥州平泉時代の子と考えるべきですが、平泉に行って間もなく生まれたとしても10歳。
有綱の妻とするには、ちょっと無理があるようです。
では、『吾妻鏡』の記事は間違えているのか?
というとそうでもないようです。
昔は・・・
例えば、有綱が義経の妹を妻としていたとしても、有綱は義経の婿という書き方をするのだとか。
妹だとすると常盤御前が産んだ子になるのだろうか???
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○静御前が産んだ子
『吾妻鏡』には、「義経の妾・静御前が鎌倉で男子を産むが、頼朝は安達新三郎清経に命じて、その子を由比ヶ浜に捨てさせた」(1186年(文治2年)閏7月29日)という記事があります。
静御前は義経の都落ちに同行していましたが、吉野山で義経と別れた後、捕らえられて鎌倉に送られてきていました。
鶴岡八幡宮では、義経を慕う舞を披露しています。
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○正妻郷御前が産んだ子
『吾妻鏡』には、「義経が妻室男女を連れて奥州平泉へ赴く」(1187年(文治3年)2月10日)という記事があります。
妻室は郷御前のことで、男女は子のことなのでしょう。
それから2年後の閏4月30日、義経は藤原泰衡に攻められて自刃しますが、その時、郷御前と娘を殺しています。
ただ、男子がどうなったのかは不明です。
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