滋賀県大津市の瀬田川に架かる橋。
京都の宇治橋、山崎橋と並ぶ日本三古橋の一つ。
日本の道100選。
近江八景の一つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」としても知られています。
現在の橋は、1979年(昭和54年)に架け替えられたもの。
緩やかな反りや旧橋の擬宝珠など往時の姿をとどめています。
いつ架けられた橋なのかは不明のようですが、神功皇后(200年代)の時代にはあったようです。
かつては、「瀬田橋を制するものは全国を制す」と言われ、京都防衛上の重要な橋でした。
1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝が木曽義仲を追討する際には、源範頼が瀬田から、源義経が宇治から京へ入り、義仲を粟津で滅ぼしています。
1221年(承久3年)の承久の乱では、6月14日、北条時房率いる幕府軍が瀬田橋で朝廷軍を敗走させて、京市中に進軍しました。
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~俵藤太のムカデ退治~
伝説によると・・・
その昔、近江国の瀬田の唐橋には大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れないでいました。
ある時、そこを通りかかったのが俵藤太秀郷(藤原秀郷)。
秀郷は66メートルもある大蛇の背を、らくらくと踏み越えていったのだといいます。
すると、大蛇は爺さんに姿を変えて秀郷の前に現れます。
爺さんが秀郷に言うには・・・
「大ムカデが現われて、琵琶湖の魚を食いつくし、人々が大変困っております。
凶暴なムカデのため退治することもできず・・・
そこで、私が大蛇に化けて勇気ある豪傑を待っていたのです・・・」
大ムカデ退治を引き受けた秀郷。
秀郷が大ムカデの眉間を矢で貫くと、大ムカデは消え去った。
爺さんが秀郷をもてなした場所が瀬田の橋の下で竜宮だったのだという。
爺さんは、琵琶湖の人々の暮らしを守る神だった。
秀郷は一生食べきれない米俵を褒美に受け取り、以後「俵藤太」と呼ばれるようになったのだとか・・・
藤原秀郷は平安時代中期の下野国の武将。
939年(天慶2年)、平将門が反乱を起こすと平貞盛・藤原為憲とともに将門を討ち取ったことで知られています。
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鎌倉との繋がりを求めて。