藤原頼経:『集古十種』より
~国立国会図書館デジタルコレクション~
鎌倉幕府四代将軍の藤原頼経は、源頼朝の同母妹、坊門姫の曾孫にあたります。
1219年(建保7年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺されると、次期将軍に誰を据えるかが問題となります。
北条政子は、次期将軍には親王を将軍にしようと考えていました。
しかし、その願いは後鳥羽上皇に断れてしまったため、1219年(承久元年)7月、九条道家の子三寅(のちの頼経)が鎌倉へ下向しました。
頼経は、1226年(嘉禄2年)、将軍宣下を受け、第四代将軍となります(摂家将軍)。
1230年(寛喜2年)には、頼朝の血を引く竹御所(頼家の娘)と結婚しています。
(参考:源頼朝の血筋断絶・・・竹御所の死:妙本寺)
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1225年(嘉禄元年)、幕府は大倉から宇津宮辻子に移転されます。
さらに11年後の1236年(嘉禎2年)には、若宮大路へ移転しています。
(宇都宮稲荷は、御所内にあった社だったといいます。)。
明王院は、1235年(嘉禎元年)、頼経が幕府の鬼門除けとして建立したと伝えられています。
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しかし、北条経時が執権になると・・・
1244年(寛元2年)、反得宗勢力に接近していた頼経は、将軍職を奪われてしまします。
頼経の跡は子頼嗣が継いで将軍となりますが、北条時頼が執権になると・・・
1246年(寛元4年)、名越光時とともに時頼打倒を企てた頼経は、鎌倉を追放され、京都に送還されました(宮騒動)。
そして、1256年(康元元年)8月11日に亡くなります。
39歳でした。
同年、子頼嗣も亡くなっています。
頼嗣は、1252年(建長4年)に将軍職を廃され、京都に送還されていました。
新しい将軍には、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が迎えられています。
以後、幕府は親王将軍を迎えることとなります。
藤原頼経は、藤原(九条)道家の子。
京都五山四位の東福寺は九条家の菩提寺。
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2022年の大河は北条義時